12月のことば
「一年の終わりに 私の歩いた 足跡をおもう」 冬の到来とともに境内には大量の落ち葉も到来します。 春から秋までは私たちの目を楽しませ夏の日には涼を与えてくれた木々の葉が境内へ大量に運ばれてきます。 街路樹の黄土色の欅(けやき)や紅い色の楓(かえで)の葉、境内の桜の赤い葉やとても大きな白木蓮(はくもくれん)の葉、黄色が鮮やかで細長い柘榴(ざくろ)の葉や梅の葉、赤ちゃんの手のような沢山の伊呂波紅葉(いろはもみじ)の葉や真っ赤なブルーベリーの葉、枯葉も緑色の細長い藤の葉や山茶花(さざんか)のピンクの花びらなどなど … 。 日々、掃いては落ち、落ちては掃くの連続で、その量は毎日大きなゴミ袋が一枚では足りない程です。 また、落ち葉は境内に敷いてある砂利と砂利の間に入り込んでしまいます。 大きな葉は目立つので苦も無く拾えますが、敷かれている砂利が茶色を基調としたものが多いので細かな葉は目に留まりにくく、まるで『ウォーリーを探せ』のように、一枚一枚探しながら手作業で拾わなければいけません。 ゆっくりと少しづつ歩きながら見つけた一枚の葉を拾おうとしゃがみ込むと大抵立っていた時には目に留まらなかった別の葉が目に入ります。 一方でしゃがんで葉を拾っていて、立ち上がり高い目線になることで見つけることもよくよくあります。 見落とさないように立ったりしゃがんだりしながら、目を皿にして拾ったはずなのに、振り返るとやはり見落とした葉を見つけ、また戻って葉を拾わなければなりません。 落ち葉拾いを始めた頃は「もうキリがない」なんてイライラしたり、「さっき拾ったところなのに」とガッカリしたりしていましたが、日を重ねた今は「見つけられて良かった」と思えるようになりました。なんでも物は取りようですね。 私たちの心の中は如何でしょうか? 今年一年を振り返ると、大きな反省、小さな反省、振り返って気付く反省が胸の内に次々と浮かんできます。見落としている反省も気付かないだけで沢山あるでしょう。 12月は仏教を開かれたお釈迦様が悟りを得られた月です。 その御教えの基本は、我が身とは自分勝手で何事に対しても『自分中心』『自我中心である』ということに気付くことです。 気付けば今年ももう年の暮れ。気忙しい今月ではありますが、来年を健やかに迎えるために、そして今年