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5月のことば

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  「逃れなき 終の闇路の 独り旅 仏よりほか 誰を頼まん」   4月2日から6月29日まで長野・善光寺で七年に一度のご本尊の御開帳が行われています。 善光寺のご本尊(阿弥陀如来)は、日本に一番最初に伝わったとされる仏様で、仏教が伝来した 552 年(欣明 13 年)、百済の聖明王から贈られたといいます。インド・中国・日本と渡ってきた「三国伝来」の阿弥陀様と言われています。 仏教美術的には善光寺式一光三尊阿弥陀如来像(ぜんこうじしき いっこうさんぞん あみだにょらいぞう、以下善光寺如来)とよばれ、三尊が納まるほどの舟形の一つの光背(後光)の前に阿弥陀如来や観音菩薩(向かって右側)・勢至菩薩(向かって左側)が配置されています。 阿弥陀如来の右手は、通常の来迎印( O Kサインのような印)とは異なり、人々の恐怖の心を取り除く施無畏印(せむいいん)、左手は慧刀印(えとういん、刀印ともいう。ピースサインの人さじ指と中指を閉じたような印)しています。観音・勢至菩薩は、胸前で両手の掌を水平に重ねた「梵篋印・ぼんきょういん」という印を結んでいます 。お参りされる際には、遠く見えないかもしれませんが、目を凝らし拝んでいただければと思います。 さて、善光寺と言えば「戒壇巡り」があります。本尊が祀られる内陣の下に降りていく階段があり、その階段を降りていくと室内は徐々に暗くなり、やがて真っ暗闇になります。この真っ暗闇の中を 進みますが、光が全くない暗闇は、例え同行の人がいたとしても、その人も見えず声しか聞こえません。そればかりか、どんなに目を凝らしても自分の手や指さえも見えず、壁を触る手の感触と床に触れる足の裏の感覚だけを頼りに歩き進みます。 そのうち方向感覚もおかしくなって、私が体験した時は、自分の存在さえも認められないような不思議な感じがしました。 出口までの僅かな時間の中で様々な思いがよぎります。それは、もし死んだらこうなるのでは?ということ。いわゆる臨死体験ですね。 死んだら右も左も上も下も分からない奈落の底に落ちるのでは?と思うと不安を通り越して恐怖を感じます。 実際には途中に錠前があって、その錠前に触れらることが出来ると「極楽行き間違いなし」とのことですが、古の人はこのような戒壇巡りを通じて、臨死体験をし、無常の世の中にある自分自身を見つめ、そのような

4月のことば

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  「時間は平等に与えられているが  「とき」はかせぐ者のみにある」   桜の開花と共に新年度がスタートしました。 黄色い帽子に大きなランドセルを背負った小学一年生が元気よく登校していきます。昨年度より少し凛々しくなった子供たちの顔もあります。 成長を見越して買ったブカブカの制服姿の中高生や真新しいスーツに身を包む新社会人の姿も目にします。それぞれが 3 月までとは違った新たなステージを歩み始めました。 でも、中には希望通りの新年度を迎えられなかった人も沢山いることでしょう。なかなか、悔しさや虚脱感から抜けきれない人もいるでしょう。 そんな人は一旦外に出て、おひさまを眺めながら、大きく一度深く深呼吸をして、身体の中に新鮮な空気をたくさん取り入れてみましょう。 確かに目標を達成できなかったかもしれませんが、もう一度よくよく考えみませんか? 今回のその目標は本当にあなたの最終目標でしたか?もしかして、本当の目標地点は今回の目標のその先にあるんじゃないですか?実は通過点だったのではありませんか? ○○大学に入って△△をしたいと思って頑張ってきたけど、残念ながら・・・、というならば、△△をすることが本来の目標ですよね。○○大学じゃなきゃ、絶対にできないことですか?今じゃなきゃできませんか?来年、またチャレンジできませんか?  今月のことばは 「時間は平等に与えられているが  「とき」はかせぐ者のみにある」   無理に前向きに歩き出さなくてもいいから、せめて俯きがちな顔をあげてみませんか? 見える景色が変わるはずです。                   

3月のことば

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  「戦争はひとり一人の心の中ではじまる(国連憲章)」 3 月は、いつも以上に心がざわざわする月です。 あちらこちらで、「決して忘れない」と耳にしますが、大切な人を亡くした人や家や会社を流されてしまった人々は、「忘れたくても忘れられない」のが実状です。 また、「復興」を亡き人への供養(鎮魂)とをワンセットに話されることが良くありますが、そもそも復興と供養(鎮魂)は別問題です。街がどんなに復興しようとも、先立たれた方々が遺族のもとに帰ってくることはないのです。どうか一番つらい方々の思いを少しでも推し量って欲しいと思います。 ただでさえ、心が揺れ動いてしまう 3 月に、ウクライナでの信じられないニュースが飛び込んできました。 生きたくても生きられなかった、助けたくても助けられなかった命があるのに … 、悲しく悲しくて耐えられません。 1 日も早く平穏な日が訪れることを願ってやみません。 「戦争はひとり一人の心の中ではじまる(国連憲章)」 祈ることしかできませんが、まずは身の回りの人々と共に穏やかな気持ちで過ごしたいと思います。

2月のことば

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  「人の世の憂き悲しみの谷底を 静かに照らす弥陀の月影」 (藤井實應上人)  年明けの 1 月と 2 月は、本来ならば救われ難い私達でも安らかな国へ救われる道を示された方々のご命日が続きます。  誰もが救われる阿弥陀さまの救いを明らかにされたお釈迦様( 2 月 15 日)。  お釈迦様の説かれた 8 万 4 千と称されるほどの数々の御教えの中から、私達が唯一救われるお念仏の御教えを説き示された浄土宗祖・法然上人( 1 月 25 日)。  法然上人の御教えをより多くの人々が救われるように伝え弘められた浄土宗第2祖聖光上人( 2 月 28 日)。  様々な祖師方がそれぞれに、誰の身にも起こる無常の理(ことわり)を示され、無常の先にある救いの道を明らかにされています。  どんなに嘆き、どんなに悲しんでも、 人の世のお別れは如何ともしがたく 、 谷底に落とされたような思いの 私達を、阿弥陀さまは静かに見守られています。「わが名を称えよ」と、暖かな救いの光を照らしてくださっています。    お釈迦様が自らの亡き後「みずからを島(中州)とし、みずからをたよりとし、他人をたよりとせず、正しい教えを島とし、正しい教えをよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と諭されたお言葉を旨に、祖師方の御教えをしっかり受け止め、ただただお念仏をお称えしたいと思います。   ナムアミダブツ

1月のことば

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「新しき 年迎えては さらにまた      続けはげまん み名呼ぶ つとめ」 ナムアミダブツ 皆様が健やかな一年になりますよう心からお祈り申し上げます。本年も何卒よろしくお願いします。 コロナ禍にあって多くの新しい言葉が生まれました。そのような中で一番耳にしたのは、何と言っても『不要不急』だと思います。この『不要不急』という言葉の意味を調べると「する必要もなく、また急ぐ必要もないこと。とりわけ重要でもない用事などについていう」とありました。「する必要も急ぐ必要もなく、重要かどうか」なものは人それぞれですが、葬儀や信仰も不要不急と捉えてしまった方が増えてきたように感じます。 近頃「葬儀は家族葬で行った」と話される方が多くいます。抑々、この『家族葬』は、家族や親族のみの「小規模な葬儀」を言いましたが、昨今では、宗教を一切排除した所謂「お別れ会」を意味する言葉に変化しました。 隣人の顔さえ知らないことが珍しくない時代に、仏教や寺と縁を持たず、仏の救いや教えを信じられない人にとっての死は全ての終着点でしかなく、葬儀という次への乗り換え地点は、「する必要も急ぐ必要もなく、とりわけ重要でないもの」なのかもしれません。 関東にお住いのOさんご夫婦は、いつも穏やかなご主人とにこやかな奥様の仲睦まじいご夫婦で、毎年お盆の供養にお揃いでお参りされていました。いつの頃か体調を崩されお参りが出来なくなってしまいましたが、毎年、手紙と共にご先祖の供養を依頼されるほど信仰心の篤いご夫婦でした。 一昨年の夏、久しぶりにご主人の声を聞くことが出来ましたが、その電話は奥様の容態と葬儀の相談のためのものでした。「緊急事態宣言下に、多数の感染者が出ている東京近郊に来てくれるのか」、「抑々きちんと見送ることが出来るのか」を心配されていましたが、どんな状況でも必ず参ると約束すると電話口のご主人は少しホッとされたようでした。 一進一退を繰り返し頑張ってこられた奥様でしたが、年の瀬になって悲しい知らせが届きました。連絡をくれた息子さんから、改めてお母様のことをお聞きすると、「私たち家族の不幸を全部一人で背負いこんでくれたような苦労の多かった母親でした」とのこと。あの微笑みの陰に多くのご苦労があったことを知りました。 葬儀の直前、施設にいるはずのご主人がお別れを言いに姿を見せました。棺に横たわる奥様に「有難う、有

12月のことば

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  「一つの言葉でケンカして、一つの言葉で仲直り、一つの言葉に喜んで、一つの言葉に泣かされた、一つの言葉はそれぞれに、一つの心を持っている」 ようやく出口が見えてきたと思っていたら、また新たな株が出現しガッカリですが、気づけば今年も暮れようとしています。 「あ~年内中に○○しなきゃ!」とか、「何日まで△△しなきゃ」と気忙しさに追い立てられます。お茶でも飲んで一息入れようとテレビを点けたら「今年の汚れ、今年のうちに♪」なんて聞こえてきて、余計に余裕がなくなってしまいますね。そんな時はテレビやスマホは休ませて、ただお茶やコーヒーの味を味わったり、好きな音楽でも聞きながら自分の目や頭も休ませましょう。 心や気持ちに余裕が無くなると自分自身が見れなくなって、普段受け止められることも受け止められなくなってしまいます。抱えきれなくなったイライラは、どこかに流れ出ます。もうすでに流れ出ているかもしれません。 「なんで、この人はイライラしているんだ?」と他人にイラっときたら要注意のサインです。実は私自身に余裕がないから他人の行動が許せないのかもしれません。 大切なことは穏やかな新年を迎えること。 相手を思いやる優しいあたたかな言葉は、自分の心をもポカポカにしてくれます。お互いに気をつけたいものですね。

11月のことば

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  「阿弥陀佛と申す人こそたのもしき 後の世までの友と思えば」 ある SNS では、自らが過去に投降した記事をもとに、何年前の今日はどこそこいたとか、何年前の今日はどこそこで何をしていたかなどを教えてくれます。 10 月のある日のこと。その日の6年前、私は法話をさせていただくご縁をいただき、長崎県の上五島を訪れていました。 当時、上五島に行くのには、仙台空港から飛行機を乗り継ぎ長崎空港まで行き、長崎空港から長崎港まではバスに揺られ、長崎港からは船に乗り上五島の港まで行くという道のりでした。 話す法話も「ちゃんと聞いてもらえるだろか?お念仏を称えていただけるだろうか?」と不安ながら、その前に、 「飛行機は時間通り到着するのだろうか?」、「バス乗り場はすぐにわかるだろうか?」、「船にはちゃんと乗れるのだろうか?」、「ちゃんと就航するのだろうか?」などなど … 。未踏の地への訪問はやはり不安が募ります。 でも、行き先に知り合いや友人が待っていてくれることを思うと、ホッと不安な気持ちも払拭でき、とても心強く勇気づけられます。   先日、亡くなられた O さんのお父さん。亡くなられた当初のご家族は、「お父さん、大丈夫かな?」「迷ったりしないかな?」ととても不安気な様子でした。 しかし、誰もが救われる阿弥陀さまのお救いをしっかりと受け止められ、晴れやかな様子でお念仏をお称えされていました。 「きっと、先立った婿さんも待っていてくれますよね」 涙の中にも笑顔が溢れるこの世のお別れでした。 同じお念仏の信仰を持つ人は、共に阿弥陀さまに救われ、同じ極楽浄土に救われ、再会を果たすことが出来ます。 お念仏の信仰がある人にとって、この世の死は終着点ではなく、次の世のスタートです。 懐かしいあの方とも、愛しいあの方ともまた逢えるよう、日々お念仏をお称えしましょう。ナムアミダブツ