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「7月のことば」

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  「まわりを照らす人になろう」 6 月のとある夕方。カラスの鳴き声が騒がしく周囲を見回すと、道路の真ん中にうずくまる一羽のカラスがいた。親ガラスたちが、動けないでいる子ガラスに対し懸命に叫び続けていたのだ。 車の行き来の合間に歩道に誘導しようとしたが一歩も動くことが出来ず、その後、一台の車に接触してしまい最悪の状況を想像した。 しかし、同じように見守っていた一人の高校生が道路に駆け出し、倒れた子ガラスを両手に抱きかかえて安全な場所に助け出してくれた。 彼のとっさの行動と勇気に感動すら覚えた。   寺に連れ帰った子ガラスは、翌日には元気にカーカーと鳴き、だいぶ復調したように見え、怪我をした野生動物を保護する施設に引き取られていった。様子を見て山に放たれるという。 親ガラスとは離れ離れになってしまうが元気に大空を飛び回って欲しい。   いま思い返しても、脳裏にあの高校生の行動が写り、感動が蘇る。 誰かを照らすための行動を心掛けたいものだ。 それがたとえ 僅かであっても。たとえ微かであっても。 (カラスのカータン)

6月のことば

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  「自我を折ることが出来て 初めて祈ることが出来る」                   ―折ると祈るー(吉野 弘) 6 月に入り、雨の日が少しずつ増えてきました。 ところが米どころ新潟の一部地域では水不足によって田んぼが干上がりそうだといいます。雨不足と昨年の暖冬による雪不足が影響しているそうで、梅雨による恵みの雨を祈るばかりです。   梅雨には長雨がつきものですが、分かっていても洗濯物が乾かないとか、やれお風呂にカビが生えるだとか、ついつい不平不満が口から出てしまいます。 顧みれば私たちには、常に「私にとって」と言う事が第一にあります。 「私にとって良い天気」「私にとって良くない天気」 「私にとって具合の良い人」「私にとって具合の良くない人」 「私にとって好ましい幸せ」「私にとって好ましくない幸せ」 などなど、自分自身の胸に手を当ててみると、胸が苦しくなる程です。 今月の言葉は、詩人・吉野 弘の「折ると祈る」という詩です。 確かに「私にとって」という「自我」を捨ててこそ、神仏に額づき真摯な心で手を合わせることが出来るのでしょう。しかし、なかなか「私にとって」という自我から逃れられない私たち。 自我を折ることが出来ない私であると我が身を見つめ、こんな私であってもお救いくださる阿弥陀様の名をただただお称えしたいと思います。                                                                               合掌

4月のことば

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  「いつでも どこでも ヨーイドン」   桜が咲いた。 観ている私の心も温かに、そして穏やかになる。 昨今は、その美しさを求め、世界中から多くの人が訪れている。 一方で花の命は短く、あと何日愛でることが出来るのかと、一抹の寂しさが漂い、世の無常を知らされる。 しかし、花を咲かせることだけが樹木や植物ではなく、葉が生い茂る時も、幹や枝だけの時も、種の時も、朽ちてしまった時も、全てが花や樹木である。 「観る私」の都合で、美しさや儚さを感じてしまっている。 新年度を迎え、願い通りの花が咲いた人、願い叶わず花が咲かなかった人、何も変わらないと思い込んでいる人。それぞれの新年度は、誰もがスタート地点であって、誰もがゴール地点ではない。 一歩一歩、しっかりとしっかりと根を伸ばし、葉を茂らせ、次の花を咲かせる準備をしたい。  

3月のことば

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  「ナムアミダブツと共に 亡き人へ想いを伝えよう」 先日、とある人から電話をもらった。 Mさんというこの人は、以前とても懇意にしていただいていたのだが、それぞれの家庭の事情や様々な状況から疎遠になっていた。少なからず震災の影響もあったかと思う。 そんなMさんと偶然会うことができ、時を忘れて立話しに興じた。大の大人がこんな言葉を口にするのは相応しくないのかもしれないが、Mさんがとても愛おしく感じ、取り戻せない過ぎ去った時間を悔やんだ。 年が明けたある日の昼、家内もMさんと会うことが出来たと、その時の様子を楽しげに話していた。 その日の晩、Mさんから突然電話をもらった。震災後初めてのことかと思う。 お互いの現況や他愛もない話だったが、時間を忘れてしばし話すことが出来、 電話を切ったあと、とても穏やかで温かな心持ちになった。 たかだかと言っては何だが、たった一本の電話での会話であったが、M さんが私に声を聴かせてくれたことがとてもとても有難く、言葉には無いが「あなたが大切な」との想いを感じた。 顔は見えなくとも、人の声や想いに、こんなにも大きな力があるのかと驚された。 今月は震災の日やお彼岸を迎える。 お経には、極楽に救われた人は、私達の声や想いを受け止めることが出来ると説かれている。 私には亡き人の声を聴くことは出来ないが、溢れんばかりの声や想いをナムアミダブツのお念仏と共に伝えたいと思う。     合掌

2月のことば

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  「すべてのものは うつりゆく おこたらず つとめよ」 元日の朝の大地震によって能登の人々の生活が大きく変わってしまいました。亡くなられた方には謹んでお念仏を申し上げますと共に、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。   お釈迦様は、現実をありのままに正しく素直に受け容れることが出来れば、「思い通りにいかない」ということから生じる様々な苦しみから逃れることが出来ると、私達にお示しくださいました。 しかし、『情』というものを持ち合わせる私達は、頭では理解していても現実を受け容れることはとても難しいことです。 今月 15 日は、お釈迦さまが亡くなられたことを悼む涅槃会です。お釈迦さまが涅槃に入られた様子が描かれた涅槃図をお飾りし、お釈迦様のご遺徳を偲びます。 涅槃図には、多くの神々や仏さまやお弟子の方々、一般の信者や数々の動物に至るまでがお釈迦様の死を悼んで悲しみにくれている様子が描かれています。お釈迦さまの傍らにいて「ありのままを受け容れなさい」との教えを学ばれ修行された方々であっても、なかなか現実に向き合うことが出来ない 難しさを物語っています。 お釈迦様は、このような私達のためにお念仏の御教えを明らかにされ、多くの御教えの中から法然上人はお念仏の正しき御教えを示されました。 法然上人は「そもそも、朝に咲いた美しい花であっても、夕暮れに吹く風に散りやすく、夕暮れに草木に付いた露のしずくも、朝の光にやすやすと消えていくのです。人はこうした道理を知らずに、永遠に続く栄耀栄華を願い、こうした道理を分からずに際限のない命を願うのです。 けれども、そのような思いを巡らすうちに、無常と言う風がいったん吹いてしまえば、はかない露にも似たこの命は永久に消え去り、魂はたった一人で行方の知れぬ旅に彷徨ことでしょう。 妻や子が同じ家に暮らしていたとしても、死出の旅路を共にしてくれる訳ではなく、蔵の中は七種の宝の山で満たされていたとしても、死出の旅路には何の役にも立ちません。ただ我が身につき従うのは後悔の涙だけなのです。 いよいよ閻魔大王が待ち受ける法廷に至ったならば、大王によって我が罪の浅い深いを見定められ、その報いの軽い重いが審判されることでしょう。大王は私に「汝は、釈尊の教えが広まっている人の世に生を受けながら、何故に仏道を修める

1月のことば

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「新年に 命の尊さを かみしめる」  ナムアミダブツ  皆様がお念仏をお称えされ、健やかな一年になりますよう心からお祈り申し上げます。本年も何卒よろしくお願いします。 いよいよ本年は、法然上人が承安5年(じょうあん・1175)に浄土宗を開かれてから850年を迎えます。 なぜ法然上人が、それまでの仏教の教えではなく、新しいお念仏の御教えを明らかにされたのか。 それは“私とは一体どういう者なのか”と言うことを突き詰められたが故にお念仏の御教えに辿り着かれました。 法然上人は、長承2年(ちょうしょう・1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)にて、武士の子として生を享けられ勢至丸と名付けられます。勢至丸様9歳の時に、夜討ちにあった父の枕辺で「敵を恨むことなく早く出家を果たし、我が菩提を弔い、自らも悟りを求めよ」との遺言に従い仏教の修学に励まれます。 15 歳にて比叡山に登られた勢至丸様は、学問修行に打ち込まれ、遂に出家を果たされ、「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」と言う名を授かります。その後も学問を極め尽くされ「深広の法然房(ふかひろのほうねんぼう)」と称される程でしたが、そこに法然上人が求めるものはありませんでした。 そもそも仏教を開かれたお釈迦様は、「この世は苦であり」、その原因である煩悩を滅すれば、苦から逃れることが出来るとお諭しです。 しかし、法然上人が学べば学ぶほど、修行に打ち込めば打ち込むほど、自身の煩悩を滅することが出来ないことに苦悩されるのです。 心の中では、欲する心や瞋りの心に常に揺れ動かされ、この世が無常であることですら本当に受け止める事など出来ない。こんな私でさえも救われる教えは無いのかと探し求められた末に、善導大師のお書物『観経疏(かんぎょうしょ)』の一文に導かれるのです。 そこには、 「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず。念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。かの仏の願に順ずるが故に」 (ただひたすら、南無阿弥陀仏と称え、いつどんな時でも、時間の長短に関わらず、絶やすことなく称え続ける。これが極楽浄土に往生できる正しき行である。それは阿弥陀様自らが、我が名を呼ぶ者を必ず

12月のことば

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「かける言葉のやさしさに、かえる言葉のなおやさし」 この季節を迎えると、あちらこちらから喪中のあいさつ葉書が届く。 亡くなられたことを知っていた人、葉書をもらって初めて知った人、身内を亡くされた人など、様々な不幸が知らされる。 存じ上げない人も多いが、やはり遺族の痛みを感じ、お念仏が口からでる。 面識のない人に対しても供養の想いを向けられるお念仏は、何と有難いものかと改めて考えさせられる。 年末。 本当は何も変わらないひと月のはずなのだが、何故か気持ちがバタバタとなる今月。 お念仏を称える時のように、いつも以上に言葉に気をつけたいものだ。