投稿

9月のことば

イメージ
  「出遇いと別れの人生で、遇っている「今」を大切にしたい」 いつのまにか 9 月になりました。 9 月を英語で言うと「 September 」。 「 September 」と言えば『アース・ウィンド・アンド・ファイアー』の名曲が思い浮かびます。 1978 年にリリースされたこの曲は世界的な大ヒットをし、40年以上を経た今でもよく耳にする不朽の名作です。 『 September 』と言う曲名から 9 月の歌かと思いきや実はそうではなく、「 9 月に出会った私達は、月日が経った 12 月の今も愛している~」と歌われている 12 月のラブソングです。 私の世代から更に上のお兄さんお姉さんたち世代の人は、この曲を聞くとついつい踊りたくなる人も多いのではないでしょうか。と同時に、楽しかった思いや苦い思い、辛かったり悲しかったことを思い出す人もいるかもしれません。「未来は今の積み重ね」と言いますが、それらの思い出を経て、「今の私」があるんですね。 9月19日(木)から25日(水)は秋のお彼岸です。 先立たれた方々が眠る墓前にお参りし、亡き人との思い出を思い返してみませんか。 その思い出は、決して楽しいことばかりではなかったかもしれません。しかし、その方との出逢いと別れがあって、「今」があります。 今を大切にするためにも、足を運び一輪の花だけでも手向けませんか。

8月のことば

イメージ
  「暑さの中に涼を求めるが如く、寂しさの中に救いの光を求める」 良いのか悪いのか分からないが、今の私に導いてくれた人がいる。 元々、高校教師をしながら僧侶をされていたその人は、県内の浄土宗の若い坊さんに仏教や浄土宗の教えの基礎をはじめ、様々な学ぶ機会を作ってくれていた人であった。 決してあれこれと指図するようなタイプではなく、物静かに一歩下がって構え、相手の自主性を尊重する人であった。 知る人ぞ知る布教師で、先生と呼ばれるような著名な布教師さんが一目を置く存在であった。   若くして住職になった私は、その重責に見合った法話をしなければというより、間違った教えを伝えないようにとの思いから法話の道を学び出した。 布教師養成講座と言う講座を受講することを決めた時にその人は、両手をあげて喜んでくれ、私の原稿に目を通してくれた。 先日、毎年恒例のこの恩師の寺の施餓鬼法要の手伝いに出向いた。 法要中、導師を勤める現住職の息子さんの姿と恩師の姿が重なって、式中にもかかわらず涙がこぼれた。何年経っても涙がこぼれる。 ある老師が、 8 月は広島の原爆、長崎の原爆、終戦記念日、お盆があり、「死」を考えさせられる月だ、との言葉に深く納得する。 猛暑の中であっても僅かな涼を求めるように、お念仏の御教えは、拭いきれない寂しさの中にも自らが救われる光が示される。 早いもので恩師も 17 回忌を迎えた。

7月のことば

イメージ
  「まわりを照らす人になろう」 6 月のとある夕方。カラスの鳴き声が騒がしく周囲を見回すと、道路の真ん中にうずくまる一羽のカラスがいた。親ガラスたちが、動けないでいる子ガラスに対し懸命に叫び続けていたのだ。 車の行き来の合間に歩道に誘導しようとしたが一歩も動くことが出来ず、その後、一台の車に接触してしまい最悪の状況を想像した。 しかし、同じように見守っていた一人の高校生が道路に駆け出し、倒れた子ガラスを両手に抱きかかえて安全な場所に助け出してくれた。 彼のとっさの行動と勇気に感動すら覚えた。   寺に連れ帰った子ガラスは、翌日には元気にカーカーと鳴き、だいぶ復調したように見え、怪我をした野生動物を保護する施設に引き取られていった。様子を見て山に放たれるという。 親ガラスとは離れ離れになってしまうが元気に大空を飛び回って欲しい。   いま思い返しても、脳裏にあの高校生の行動が写り、感動が蘇る。 誰かを照らすための行動を心掛けたいものだ。 それがたとえ 僅かであっても。たとえ微かであっても。 (カラスのカータン)

6月のことば

イメージ
  「自我を折ることが出来て 初めて祈ることが出来る」                   ―折ると祈るー(吉野 弘) 6 月に入り、雨の日が少しずつ増えてきました。 ところが米どころ新潟の一部地域では水不足によって田んぼが干上がりそうだといいます。雨不足と昨年の暖冬による雪不足が影響しているそうで、梅雨による恵みの雨を祈るばかりです。   梅雨には長雨がつきものですが、分かっていても洗濯物が乾かないとか、やれお風呂にカビが生えるだとか、ついつい不平不満が口から出てしまいます。 顧みれば私たちには、常に「私にとって」と言う事が第一にあります。 「私にとって良い天気」「私にとって良くない天気」 「私にとって具合の良い人」「私にとって具合の良くない人」 「私にとって好ましい幸せ」「私にとって好ましくない幸せ」 などなど、自分自身の胸に手を当ててみると、胸が苦しくなる程です。 今月の言葉は、詩人・吉野 弘の「折ると祈る」という詩です。 確かに「私にとって」という「自我」を捨ててこそ、神仏に額づき真摯な心で手を合わせることが出来るのでしょう。しかし、なかなか「私にとって」という自我から逃れられない私たち。 自我を折ることが出来ない私であると我が身を見つめ、こんな私であってもお救いくださる阿弥陀様の名をただただお称えしたいと思います。                                                                               合掌

4月のことば

イメージ
  「いつでも どこでも ヨーイドン」   桜が咲いた。 観ている私の心も温かに、そして穏やかになる。 昨今は、その美しさを求め、世界中から多くの人が訪れている。 一方で花の命は短く、あと何日愛でることが出来るのかと、一抹の寂しさが漂い、世の無常を知らされる。 しかし、花を咲かせることだけが樹木や植物ではなく、葉が生い茂る時も、幹や枝だけの時も、種の時も、朽ちてしまった時も、全てが花や樹木である。 「観る私」の都合で、美しさや儚さを感じてしまっている。 新年度を迎え、願い通りの花が咲いた人、願い叶わず花が咲かなかった人、何も変わらないと思い込んでいる人。それぞれの新年度は、誰もがスタート地点であって、誰もがゴール地点ではない。 一歩一歩、しっかりとしっかりと根を伸ばし、葉を茂らせ、次の花を咲かせる準備をしたい。  

3月のことば

イメージ
  「ナムアミダブツと共に 亡き人へ想いを伝えよう」 先日、とある人から電話をもらった。 Mさんというこの人は、以前とても懇意にしていただいていたのだが、それぞれの家庭の事情や様々な状況から疎遠になっていた。少なからず震災の影響もあったかと思う。 そんなMさんと偶然会うことができ、時を忘れて立話しに興じた。大の大人がこんな言葉を口にするのは相応しくないのかもしれないが、Mさんがとても愛おしく感じ、取り戻せない過ぎ去った時間を悔やんだ。 年が明けたある日の昼、家内もMさんと会うことが出来たと、その時の様子を楽しげに話していた。 その日の晩、Mさんから突然電話をもらった。震災後初めてのことかと思う。 お互いの現況や他愛もない話だったが、時間を忘れてしばし話すことが出来、 電話を切ったあと、とても穏やかで温かな心持ちになった。 たかだかと言っては何だが、たった一本の電話での会話であったが、M さんが私に声を聴かせてくれたことがとてもとても有難く、言葉には無いが「あなたが大切な」との想いを感じた。 顔は見えなくとも、人の声や想いに、こんなにも大きな力があるのかと驚された。 今月は震災の日やお彼岸を迎える。 お経には、極楽に救われた人は、私達の声や想いを受け止めることが出来ると説かれている。 私には亡き人の声を聴くことは出来ないが、溢れんばかりの声や想いをナムアミダブツのお念仏と共に伝えたいと思う。     合掌

2月のことば

イメージ
  「すべてのものは うつりゆく おこたらず つとめよ」 元日の朝の大地震によって能登の人々の生活が大きく変わってしまいました。亡くなられた方には謹んでお念仏を申し上げますと共に、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。   お釈迦様は、現実をありのままに正しく素直に受け容れることが出来れば、「思い通りにいかない」ということから生じる様々な苦しみから逃れることが出来ると、私達にお示しくださいました。 しかし、『情』というものを持ち合わせる私達は、頭では理解していても現実を受け容れることはとても難しいことです。 今月 15 日は、お釈迦さまが亡くなられたことを悼む涅槃会です。お釈迦さまが涅槃に入られた様子が描かれた涅槃図をお飾りし、お釈迦様のご遺徳を偲びます。 涅槃図には、多くの神々や仏さまやお弟子の方々、一般の信者や数々の動物に至るまでがお釈迦様の死を悼んで悲しみにくれている様子が描かれています。お釈迦さまの傍らにいて「ありのままを受け容れなさい」との教えを学ばれ修行された方々であっても、なかなか現実に向き合うことが出来ない 難しさを物語っています。 お釈迦様は、このような私達のためにお念仏の御教えを明らかにされ、多くの御教えの中から法然上人はお念仏の正しき御教えを示されました。 法然上人は「そもそも、朝に咲いた美しい花であっても、夕暮れに吹く風に散りやすく、夕暮れに草木に付いた露のしずくも、朝の光にやすやすと消えていくのです。人はこうした道理を知らずに、永遠に続く栄耀栄華を願い、こうした道理を分からずに際限のない命を願うのです。 けれども、そのような思いを巡らすうちに、無常と言う風がいったん吹いてしまえば、はかない露にも似たこの命は永久に消え去り、魂はたった一人で行方の知れぬ旅に彷徨ことでしょう。 妻や子が同じ家に暮らしていたとしても、死出の旅路を共にしてくれる訳ではなく、蔵の中は七種の宝の山で満たされていたとしても、死出の旅路には何の役にも立ちません。ただ我が身につき従うのは後悔の涙だけなのです。 いよいよ閻魔大王が待ち受ける法廷に至ったならば、大王によって我が罪の浅い深いを見定められ、その報いの軽い重いが審判されることでしょう。大王は私に「汝は、釈尊の教えが広まっている人の世に生を受けながら、何故に仏道を修める