おてらからのおたより ―平成25年9月のことばー
「ありがとうを 心に口に 行いに」 先日ある噺家が、時代や社会が変わり過ぎて、現代人に落語の面白さが伝わりずらくなってきていると言っていた。確かに“長屋のはっつぁん”と聞いても、長屋自体をあまり見かけないし、道具屋と言われても道具屋とはいったい何屋さんなのか分からずがピンとこないかもしれない。 古典落語に『千両みかん』という演目がある。 ある呉服屋の若旦那の具合が悪くなり医者に診てもらうと、「気の病で、何か心に思っていることが叶えば、良くなる」という。しかし、いくら父親が尋ねても、若旦那は首を横に振るばかりで、数日後には飯も喉に通らないほど衰弱してしまう。みかねた父親は、番頭に 「何が何でも悩みを聞きだせ!」 と言いつけた。 なかなか口を割らなかった若旦那であったが、聞けば「実は、 ミカンが食べたい」という。ところが季節は真夏、土用の八月。こんな季節にミカンなどあるはずがない。番頭さん、死に物狂いであちらこちらを探し回り、ようやく見つけたたった一個のミカンがなんと千両もするという。でも、背に腹は代えられない父親、可愛い倅が元気になるならと、千両もの大金をはたいて、一個のミカンを買ってあげた。ミカンの中には十房の実が入っていたから、何と一房百両である。 喜んでミカンを食べていた若旦那だが、三房残して番頭にこう告げる。 「一房はお父つぁんに、もう一房はお母つぁんに、そしてもう一房は番頭さん貴方に」 ミカンを手にした番頭さん。「一房百両。三つ合わせて三百両…。このままずっと奉公していたって、そんなお金は手に入らない。」と、手渡されたミカン三房を持ち逃げしたという話である。 冷凍技術の進歩によって、リンゴもミカンも西瓜も梨も一年中あるので、今の人には、この話もピンと来ないかもしれない。今の時期の法事のお供えにミカンがあげられることも珍しくなくなった。“秋ナスは嫁に食わすな”と言ったが、食べ物に“旬”を求めるのは難しい時代になってきたし、子や孫にさんまの季節は?と尋ねて、トンチンカンな答えが返ってくるのもそう遠くないのかもしれない。 そんな中、気候や服装以外で季節を感じられるのは、お正月、春彼岸、お盆、秋彼岸、お十夜、除夜・・・、唯一宗教行事だけなのかもしれない。 先日、ある法事で「時代の変化とともに、お墓参りなどはどんどん廃れていくんじゃないですか」