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ラベル(令和6年 今月のことば)が付いた投稿を表示しています

12月のことば

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  「人の振り見て我が振り直す」 子供のころ、良く親に言われた言葉です。今となっては自分が親になり言われる事も無くなりましたが幾つになっても大切な言葉だと思いました。   先日、出張のために訪れた空港で、旅客が空港職員にクレームを付けている場面に出くわしました。えらい剣幕でクレームを言っていたのは60代と思しき女性、両手を前に合わせ何度も頭を下げながらクレームを聞いていたのは20代の女性。何が原因でどちらが悪いのかも知りませんが、クレームを聞いている女性が私の娘と同年代の為か、「何も出発前にそんなにガミガミ言わなくとも」と思わず眉をひそめました。でも立場を入れ替えて、私がとんでもないミスをされ大事な法務に支障が出たらどうしていたか?いずれにせよ自らの怒りを他人にぶつけている姿は格好の良いものではないことを気付かされました。日頃、すぐにプリプリしてしまう私は、これまで数えきれないほど格好が悪い姿を晒していたと恥かしくなりました。   「人のふり見て我がふり直す」 現代では、この言葉は悪いモデルを見て我が振りを直せとの意味合いが強いですが、元々は良いモデルを見て我が振りを直すことも教えてくれています。 他人を批判することは得意な昨今、他人の良いところこそを真似したいものです。   年末の気忙しい日々。 阿弥陀様をはじめ、お念仏を称えて極楽浄土へ先立たれた人々は、「私の振り」をご覧になっています。 こんな時こそ時間や気持ちに余裕をもって大らかに過ごし、しっかりとお念仏をお称えし、より佳き新年をお迎えしましょう。合掌

11月のことば

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  「わかちあうと 幸せはふくらむ」  今年もあと 2 か月。 11 月は年末とまで云わないまでも、なにか気忙しい気がしますね。 時間に追われ、知らず知らずのうちに気持ちの余裕も無くなっていることも多くあります。夜空の星を眺めたり、手を洗ってみたり、すぐに実行出来る心の中の空気の入れ替えをしてみませんか。  先日、よく利用するエレベーターでのこと。 用を終え、先にエレベーター内に乗り込んだ私。目の前のお婆ちゃんがゆっくりゆっくりと靴を履いています。普段なら、急かすのも迷惑だろうとドアを閉めて先に降りてしまうのですが、この日は待っていようと、「開」のボタンを押したままでお婆ちゃんを待ちました。時間にして 30 秒ほどだったでしょうか。ようやく靴を履いたお婆ちゃんが振り向くと、ドアを開けて待っていた私に驚かれました。「あらっ」と急いでエレベーター内に乗り込んできたお婆ちゃんは、エレベーターが来たことに気付いていたけれど、待たせるのが悪いから、わざとゆっくりと靴を履き、おまけに自分が気づいていないふりまでしていたとのこと。  そんな気を遣う必要もないのにと話す私に「やさしいのね、あなたのやさしさがとても嬉しいわ」との言葉を掛けてくれました。私は「こちらこそ、有り難うございます」と伝え、その場を後にしました。  高々 30 秒待っただけで、このお婆ちゃんから心が豊かになる感謝の言葉と素敵な笑顔の施しをいただきました。この施しを仏教では「和顔愛語(わげんあいご)」と言います。  人の顔は、その人の内面がつくると言います。  わずかなこと、いや微かなことであったとしても、和顔愛語を心掛ける 11 月にしませんか。

10月のことば

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  「たまには立ち止まってみてごらん 違った景色が見えてくる」   酷暑に涼を与えてくれた青々とした葉もいつしか茶色になり、落ち葉拾いに追われる季節になりました。 毎日毎日、枯葉拾いに追われるのは決して楽ではありませんが、考えようによっては頭の中を空っぽにしたり、書かなきゃいけない原稿を練ったり、様々なことに向き合うことが出来る貴重な時間でもあります。 秋は、「秋の日は釣瓶落とし」と例えられるように日が暮れるのが早くなり夜の時間が長くなります。   読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋 … 。   「日が短くなったね~」なんてぼやいてないで、〝自分に向きあう時間〟を提供してくれているそれぞれの秋を満喫しましょう。 もちろん普段以上にお念仏を称えることも忘れずに。  

9月のことば

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  「出遇いと別れの人生で、遇っている「今」を大切にしたい」 いつのまにか 9 月になりました。 9 月を英語で言うと「 September 」。 「 September 」と言えば『アース・ウィンド・アンド・ファイアー』の名曲が思い浮かびます。 1978 年にリリースされたこの曲は世界的な大ヒットをし、40年以上を経た今でもよく耳にする不朽の名作です。 『 September 』と言う曲名から 9 月の歌かと思いきや実はそうではなく、「 9 月に出会った私達は、月日が経った 12 月の今も愛している~」と歌われている 12 月のラブソングです。 私の世代から更に上のお兄さんお姉さんたち世代の人は、この曲を聞くとついつい踊りたくなる人も多いのではないでしょうか。と同時に、楽しかった思いや苦い思い、辛かったり悲しかったことを思い出す人もいるかもしれません。「未来は今の積み重ね」と言いますが、それらの思い出を経て、「今の私」があるんですね。 9月19日(木)から25日(水)は秋のお彼岸です。 先立たれた方々が眠る墓前にお参りし、亡き人との思い出を思い返してみませんか。 その思い出は、決して楽しいことばかりではなかったかもしれません。しかし、その方との出逢いと別れがあって、「今」があります。 今を大切にするためにも、足を運び一輪の花だけでも手向けませんか。

8月のことば

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  「暑さの中に涼を求めるが如く、寂しさの中に救いの光を求める」 良いのか悪いのか分からないが、今の私に導いてくれた人がいる。 元々、高校教師をしながら僧侶をされていたその人は、県内の浄土宗の若い坊さんに仏教や浄土宗の教えの基礎をはじめ、様々な学ぶ機会を作ってくれていた人であった。 決してあれこれと指図するようなタイプではなく、物静かに一歩下がって構え、相手の自主性を尊重する人であった。 知る人ぞ知る布教師で、先生と呼ばれるような著名な布教師さんが一目を置く存在であった。   若くして住職になった私は、その重責に見合った法話をしなければというより、間違った教えを伝えないようにとの思いから法話の道を学び出した。 布教師養成講座と言う講座を受講することを決めた時にその人は、両手をあげて喜んでくれ、私の原稿に目を通してくれた。 先日、毎年恒例のこの恩師の寺の施餓鬼法要の手伝いに出向いた。 法要中、導師を勤める現住職の息子さんの姿と恩師の姿が重なって、式中にもかかわらず涙がこぼれた。何年経っても涙がこぼれる。 ある老師が、 8 月は広島の原爆、長崎の原爆、終戦記念日、お盆があり、「死」を考えさせられる月だ、との言葉に深く納得する。 猛暑の中であっても僅かな涼を求めるように、お念仏の御教えは、拭いきれない寂しさの中にも自らが救われる光が示される。 早いもので恩師も 17 回忌を迎えた。

7月のことば

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  「まわりを照らす人になろう」 6 月のとある夕方。カラスの鳴き声が騒がしく周囲を見回すと、道路の真ん中にうずくまる一羽のカラスがいた。親ガラスたちが、動けないでいる子ガラスに対し懸命に叫び続けていたのだ。 車の行き来の合間に歩道に誘導しようとしたが一歩も動くことが出来ず、その後、一台の車に接触してしまい最悪の状況を想像した。 しかし、同じように見守っていた一人の高校生が道路に駆け出し、倒れた子ガラスを両手に抱きかかえて安全な場所に助け出してくれた。 彼のとっさの行動と勇気に感動すら覚えた。   寺に連れ帰った子ガラスは、翌日には元気にカーカーと鳴き、だいぶ復調したように見え、怪我をした野生動物を保護する施設に引き取られていった。様子を見て山に放たれるという。 親ガラスとは離れ離れになってしまうが元気に大空を飛び回って欲しい。   いま思い返しても、脳裏にあの高校生の行動が写り、感動が蘇る。 誰かを照らすための行動を心掛けたいものだ。 それがたとえ 僅かであっても。たとえ微かであっても。 (カラスのカータン)

6月のことば

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  「自我を折ることが出来て 初めて祈ることが出来る」                   ―折ると祈るー(吉野 弘) 6 月に入り、雨の日が少しずつ増えてきました。 ところが米どころ新潟の一部地域では水不足によって田んぼが干上がりそうだといいます。雨不足と昨年の暖冬による雪不足が影響しているそうで、梅雨による恵みの雨を祈るばかりです。   梅雨には長雨がつきものですが、分かっていても洗濯物が乾かないとか、やれお風呂にカビが生えるだとか、ついつい不平不満が口から出てしまいます。 顧みれば私たちには、常に「私にとって」と言う事が第一にあります。 「私にとって良い天気」「私にとって良くない天気」 「私にとって具合の良い人」「私にとって具合の良くない人」 「私にとって好ましい幸せ」「私にとって好ましくない幸せ」 などなど、自分自身の胸に手を当ててみると、胸が苦しくなる程です。 今月の言葉は、詩人・吉野 弘の「折ると祈る」という詩です。 確かに「私にとって」という「自我」を捨ててこそ、神仏に額づき真摯な心で手を合わせることが出来るのでしょう。しかし、なかなか「私にとって」という自我から逃れられない私たち。 自我を折ることが出来ない私であると我が身を見つめ、こんな私であってもお救いくださる阿弥陀様の名をただただお称えしたいと思います。                                                                               合掌

4月のことば

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  「いつでも どこでも ヨーイドン」   桜が咲いた。 観ている私の心も温かに、そして穏やかになる。 昨今は、その美しさを求め、世界中から多くの人が訪れている。 一方で花の命は短く、あと何日愛でることが出来るのかと、一抹の寂しさが漂い、世の無常を知らされる。 しかし、花を咲かせることだけが樹木や植物ではなく、葉が生い茂る時も、幹や枝だけの時も、種の時も、朽ちてしまった時も、全てが花や樹木である。 「観る私」の都合で、美しさや儚さを感じてしまっている。 新年度を迎え、願い通りの花が咲いた人、願い叶わず花が咲かなかった人、何も変わらないと思い込んでいる人。それぞれの新年度は、誰もがスタート地点であって、誰もがゴール地点ではない。 一歩一歩、しっかりとしっかりと根を伸ばし、葉を茂らせ、次の花を咲かせる準備をしたい。  

3月のことば

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  「ナムアミダブツと共に 亡き人へ想いを伝えよう」 先日、とある人から電話をもらった。 Mさんというこの人は、以前とても懇意にしていただいていたのだが、それぞれの家庭の事情や様々な状況から疎遠になっていた。少なからず震災の影響もあったかと思う。 そんなMさんと偶然会うことができ、時を忘れて立話しに興じた。大の大人がこんな言葉を口にするのは相応しくないのかもしれないが、Mさんがとても愛おしく感じ、取り戻せない過ぎ去った時間を悔やんだ。 年が明けたある日の昼、家内もMさんと会うことが出来たと、その時の様子を楽しげに話していた。 その日の晩、Mさんから突然電話をもらった。震災後初めてのことかと思う。 お互いの現況や他愛もない話だったが、時間を忘れてしばし話すことが出来、 電話を切ったあと、とても穏やかで温かな心持ちになった。 たかだかと言っては何だが、たった一本の電話での会話であったが、M さんが私に声を聴かせてくれたことがとてもとても有難く、言葉には無いが「あなたが大切な」との想いを感じた。 顔は見えなくとも、人の声や想いに、こんなにも大きな力があるのかと驚された。 今月は震災の日やお彼岸を迎える。 お経には、極楽に救われた人は、私達の声や想いを受け止めることが出来ると説かれている。 私には亡き人の声を聴くことは出来ないが、溢れんばかりの声や想いをナムアミダブツのお念仏と共に伝えたいと思う。     合掌

2月のことば

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  「すべてのものは うつりゆく おこたらず つとめよ」 元日の朝の大地震によって能登の人々の生活が大きく変わってしまいました。亡くなられた方には謹んでお念仏を申し上げますと共に、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。   お釈迦様は、現実をありのままに正しく素直に受け容れることが出来れば、「思い通りにいかない」ということから生じる様々な苦しみから逃れることが出来ると、私達にお示しくださいました。 しかし、『情』というものを持ち合わせる私達は、頭では理解していても現実を受け容れることはとても難しいことです。 今月 15 日は、お釈迦さまが亡くなられたことを悼む涅槃会です。お釈迦さまが涅槃に入られた様子が描かれた涅槃図をお飾りし、お釈迦様のご遺徳を偲びます。 涅槃図には、多くの神々や仏さまやお弟子の方々、一般の信者や数々の動物に至るまでがお釈迦様の死を悼んで悲しみにくれている様子が描かれています。お釈迦さまの傍らにいて「ありのままを受け容れなさい」との教えを学ばれ修行された方々であっても、なかなか現実に向き合うことが出来ない 難しさを物語っています。 お釈迦様は、このような私達のためにお念仏の御教えを明らかにされ、多くの御教えの中から法然上人はお念仏の正しき御教えを示されました。 法然上人は「そもそも、朝に咲いた美しい花であっても、夕暮れに吹く風に散りやすく、夕暮れに草木に付いた露のしずくも、朝の光にやすやすと消えていくのです。人はこうした道理を知らずに、永遠に続く栄耀栄華を願い、こうした道理を分からずに際限のない命を願うのです。 けれども、そのような思いを巡らすうちに、無常と言う風がいったん吹いてしまえば、はかない露にも似たこの命は永久に消え去り、魂はたった一人で行方の知れぬ旅に彷徨ことでしょう。 妻や子が同じ家に暮らしていたとしても、死出の旅路を共にしてくれる訳ではなく、蔵の中は七種の宝の山で満たされていたとしても、死出の旅路には何の役にも立ちません。ただ我が身につき従うのは後悔の涙だけなのです。 いよいよ閻魔大王が待ち受ける法廷に至ったならば、大王によって我が罪の浅い深いを見定められ、その報いの軽い重いが審判されることでしょう。大王は私に「汝は、釈尊の教えが広まっている人の世に生を受けながら、...

1月のことば

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「新年に 命の尊さを かみしめる」  ナムアミダブツ  皆様がお念仏をお称えされ、健やかな一年になりますよう心からお祈り申し上げます。本年も何卒よろしくお願いします。 いよいよ本年は、法然上人が承安5年(じょうあん・1175)に浄土宗を開かれてから850年を迎えます。 なぜ法然上人が、それまでの仏教の教えではなく、新しいお念仏の御教えを明らかにされたのか。 それは“私とは一体どういう者なのか”と言うことを突き詰められたが故にお念仏の御教えに辿り着かれました。 法然上人は、長承2年(ちょうしょう・1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)にて、武士の子として生を享けられ勢至丸と名付けられます。勢至丸様9歳の時に、夜討ちにあった父の枕辺で「敵を恨むことなく早く出家を果たし、我が菩提を弔い、自らも悟りを求めよ」との遺言に従い仏教の修学に励まれます。 15 歳にて比叡山に登られた勢至丸様は、学問修行に打ち込まれ、遂に出家を果たされ、「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」と言う名を授かります。その後も学問を極め尽くされ「深広の法然房(ふかひろのほうねんぼう)」と称される程でしたが、そこに法然上人が求めるものはありませんでした。 そもそも仏教を開かれたお釈迦様は、「この世は苦であり」、その原因である煩悩を滅すれば、苦から逃れることが出来るとお諭しです。 しかし、法然上人が学べば学ぶほど、修行に打ち込めば打ち込むほど、自身の煩悩を滅することが出来ないことに苦悩されるのです。 心の中では、欲する心や瞋りの心に常に揺れ動かされ、この世が無常であることですら本当に受け止める事など出来ない。こんな私でさえも救われる教えは無いのかと探し求められた末に、善導大師のお書物『観経疏(かんぎょうしょ)』の一文に導かれるのです。 そこには、 「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず。念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。かの仏の願に順ずるが故に」 (ただひたすら、南無阿弥陀仏と称え、いつどんな時でも、時間の長短に関わらず、絶やすことなく称え続ける。これが極楽浄土に往生できる正しき行である。それは阿弥陀様自らが、我が名を呼ぶ...