おてらからのおたより  ー平成28年1月ー

平成28年を迎えました。ともに命あること、お念佛を称えられることをお慶び申し上げます。




なかなか明るい話題を思い出せない昨年ですが、私に取りまして仙台と石巻を結ぶJR仙石線が復活したことは本当に嬉しい出来事でした。仙台駅の仙石線ホームには、青葉通り駅から石巻駅までの全ての駅が記された電光掲示板があり、震災以降は不通の為にいくつかの駅が消えていました。しかし、ようやく全線が復活し、掲示板の全ての駅が点灯されているのを見た時には、涙が出るほどでした。

振り返ってみれば、今は当たり前に乗車する電車も、もともとは何もないところから出発し、計画を立て、地権者を説得し、土地を切り開き、線路を敷き、ようやく私達が乗車することが出来ています。今回の復活に関しても、駅を高台に移転したり、線路を山側に移動したりと、多くの見えないご苦労のおかげがある事を忘れてはいけません。

いま当たり前のようにお称えされるお念仏も始めから東北の地にあったのではなく、約800年前、『金光上人(こんこうしょうにん)』によってお伝えいただきました。金光上人は、久寿二年(1155年)、筑後の国(現福岡県久留米市)にお生まれになりました。幼くして出家され、後に比叡山に登り天台宗の教えを学ばれ、32歳で故郷にある観音寺と言う寺に入られました。

ある時、寺の諸用で鎌倉へ赴いた際に、法然上人の直弟子『安楽房遵西上人(あんらくぼうじゅんさい』から、全ての人が救われる法然上人のお念仏の御教えを聞かされ、金光上人は急ぎ法然上人のもとを訪ね、お弟子になられました。以来、長きに渡り法然上人の許で学ばれ、お念仏に励まれた金光上人は、法然上人より

「私が亡くなった後に判らない事があったならば、聖光房か金光房に聞きなさい」

と後の浄土宗第二祖となられる聖光房弁長上人と並び称されるほどでありました。

その後、法然上人よりお念仏不毛の地である陸奥へ阿弥陀様の御救いを伝えて欲しいと請われ、京より遠く離れた陸奥の地へと、足を運ばれました。

たった一人の知り合いのいない陸奥において、金光上人が初めて腰を下ろされたのが栗駒山の麓、今の石垣箱根山金光往生寺の地でありました。しばらくの布教の後、更に北へと進まれ、花巻・遠野においてもお念佛を弘められ、更に更に本州最北の地・終焉の地となる津軽へと足を運ばれました。

極寒の地で、つらく厳しい布教のためか、立派なお体はみるみる痩せ衰え、見る影もなかったといいます。

このような苦しい状況であっても志は高く、多くの人々にお念仏の御教えをお伝えされました。しかし、その労がたたったのか。建保5年(1217年)3月。遂に青森・浪岡の地において往生の素懐を遂げられました。御年63歳でありました。

九州の地に生を享けられ、ただ法然上人のお念仏の御教えをお伝えせねばと、遥かこの東北の地に赴かれ、そのご生涯を捧げられた金光上人。金光上人が正に命を懸けて、お伝えいただいたお念仏を、私達は一体どんな思いで称えているか?

 800回忌の本年、今一度そのご労苦をしのび、しっかりとお念仏をお称えしたいものです。本年も宜しくお願いいたします。            合掌


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