おてらからのおたより -平成25年1月ー
ともに新年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。本年もよろしくお願いいたします。
昨年末の大きな余震。忘れかけていた嫌な感覚がよみがえった人も多かったのではないでしょうか。“いつ何時”と常日頃から意識をしているつもりでも、いざという時にはいかに無力で、「私は大丈夫」という浅はかな気持ちが捨てきれないことを改めて思い知らされました。
「どこにいるのだろう」
一昨年の十月から始まった震災遺族対象の法話の会。宗派を問わずご縁をいただいた方々に法然上人の御教えをお伝えさせていただいております。当たり前の日常が一変し、突然、家族が亡くなったり、行方が分からなくなってしまった人々が、何とか葬儀は行ったものの、おくったはずの家族がどこにいるのかはっきりせず、「どこかで迷い、苦しんでいるんじゃないか」と、悩み苦しまれていました。私は、法然上人が『一紙小消息』の中に示された、お念仏をお称えする私達が踏まえるべき三本の柱についてお伝えしました。
「どこに救われるのか?」
「十方に浄土多けれど西方を願うは、十悪五逆の衆生の生まるる故なり」
「死んだら、どこへ行く」という問いに、「死んだら終わり」または、「多分、良いところに行けるだろう」と答える人が多いのですが、本当でしょうか。私達は、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)と言って、他のものの命を頂かないと生きていけず、ついつい嘘や悪口などを口にし、あれも欲しいこれも欲しいと貪る心を抑える事など出来ません。時には怒りの炎を燃やし、仏の教えも他人事のように疎い。例え、実際に行動に移さなくとも、心の中では「いなくなればいいのに」と、父や母を殺してしまったりするような私達。このような私達は、本来であれば地獄や餓鬼などの苦しみしかない世界に落ちてしまいます。しかし、こんな私達であっても、仏様の国は数あれど唯一生まれさせていただけるところが、西方極楽浄土です。だから、西方に救ってくださいと願うのですよ。
「誰が救ってくださるか?」
「諸仏の中に弥陀に帰し奉るは三念五念に至るまで、自ら来迎したもう故なり」
こんな十悪五逆の私達を西方極楽浄土へお救いくださるのは、一体どなたでしょうか。「どんな者であっても、生まれ変わり死に変わりの苦しみから、私が必ず救いとる。もし救えなければ仏にはならない」と誓われ、難行苦行の末に仏となられたのが阿弥陀様です。私達を救ってくださるのは、阿弥陀様ただお一人。その救いは、常日頃からお念仏を称える人はもとより、お念仏と縁浅く、たった三遍や五遍のお念仏しか称えられなかった人でも、阿弥陀様自らが、命の火が消えようとしている目の前まで迎えに来てくださり、西方極楽浄土までお連れいただける。だから様々な仏様の中でも、阿弥陀様におすがりし、お救いいただくのですよ。
「どうしたら救われるのか?」
「諸行の中に念仏を用うるは、彼の仏の本願なる故なり」
では、阿弥陀様に西方極楽浄土へ救われるのには、一体どのような修業をすればよいのでしょうか。阿弥陀様は、一人の漏れもなく全ての人を救うために、皆が出来る修業方法をたった一つご用意くださいました。それが「どうかお救いくださいと念じ、ナムアミダブツと我が名を呼んだ者を、私は必ず救い取るぞ」という本願のお念仏です。だから、様々な修行がある中でも、ただただお念仏を称えるのですよ。どこに、誰に、どうしたら。私達は、西方極楽浄土へ、阿弥陀様におすがりし、お念仏を称え、お救いいただく。法然上人がはっきりと示されています。
「もう会えないわけではない」
遺族の方々は、今も苦しい心情ながら、共に救われ、「いつか必ず先立たった家族とまた会うのだ」と、お念仏に励まれています。遺族だけではなく、私達もつらく厳しい無常のこの世の真っ只中にいます。
“いざという時”をしっかりと見据え、“私は大丈夫”の思いを捨てなければいけません。今年一年の、いや生涯の目標である大切な三本の柱をしっかりと踏まえ、日々お念仏をお称えしてまいりましょう。
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