5月のことば
善光寺のご本尊(阿弥陀如来)は、日本に一番最初に伝わったとされる仏様で、仏教が伝来した552年(欣明13年)、百済の聖明王から贈られたといいます。インド・中国・日本と渡ってきた「三国伝来」の阿弥陀様と言われています。
仏教美術的には善光寺式一光三尊阿弥陀如来像(ぜんこうじしき いっこうさんぞん あみだにょらいぞう、以下善光寺如来)とよばれ、三尊が納まるほどの舟形の一つの光背(後光)の前に阿弥陀如来や観音菩薩(向かって右側)・勢至菩薩(向かって左側)が配置されています。
阿弥陀如来の右手は、通常の来迎印(OKサインのような印)とは異なり、人々の恐怖の心を取り除く施無畏印(せむいいん)、左手は慧刀印(えとういん、刀印ともいう。ピースサインの人さじ指と中指を閉じたような印)しています。観音・勢至菩薩は、胸前で両手の掌を水平に重ねた「梵篋印・ぼんきょういん」という印を結んでいます。お参りされる際には、遠く見えないかもしれませんが、目を凝らし拝んでいただければと思います。
さて、善光寺と言えば「戒壇巡り」があります。本尊が祀られる内陣の下に降りていく階段があり、その階段を降りていくと室内は徐々に暗くなり、やがて真っ暗闇になります。この真っ暗闇の中を進みますが、光が全くない暗闇は、例え同行の人がいたとしても、その人も見えず声しか聞こえません。そればかりか、どんなに目を凝らしても自分の手や指さえも見えず、壁を触る手の感触と床に触れる足の裏の感覚だけを頼りに歩き進みます。そのうち方向感覚もおかしくなって、私が体験した時は、自分の存在さえも認められないような不思議な感じがしました。
出口までの僅かな時間の中で様々な思いがよぎります。それは、もし死んだらこうなるのでは?ということ。いわゆる臨死体験ですね。
死んだら右も左も上も下も分からない奈落の底に落ちるのでは?と思うと不安を通り越して恐怖を感じます。
実際には途中に錠前があって、その錠前に触れらることが出来ると「極楽行き間違いなし」とのことですが、古の人はこのような戒壇巡りを通じて、臨死体験をし、無常の世の中にある自分自身を見つめ、そのような自分が如何に無力であるか?いかに佛の救いが有難いかを実感されたのだと思います。
現代に生きる私達は、科学が進歩し、色んなものが便利になりましたが、昔の人より命のことや命を終えた後のことに疎くなっています。
まるで戒壇巡りの中のような何が起こるか分からない真っ暗闇の無常の中に自分自身がいることにさえ気付いていなく、真っ暗闇にいるからこそ自らが貪りの心や怒りの心、愚かな心などの様々な罪を犯しながら生きていることに気付いていないお互いです。
そんな私たちが、何にもすがらず、何の信仰もなくこの世を去ることになったならば、どうなるか?
「逃れなき 終の闇路の 独り旅 仏よりほか 誰を頼まん」
出口のない真っ暗闇の奈落の底に落とされ、泣き叫んでも、助けを呼んでも誰も助けてくれず、地獄の獄卒に苦しめ続けられるのかと思うと、こんな汚れた心を捨てきれない私であっても救ってくださる方におすがりするしかないんですね。
どうかどうか、私達を唯一お救いくださる阿弥陀さまのお名前をナムアミダブ・ナムアミダブツと日々お称えしましょう。 合掌
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