6月のことば

 

「機会が人を見捨てるよりも 人が機会を見捨てる方が多い」

 コロナ禍になって、各本山へ参る事も出来なかったのでありますが、今年に入ってから東京のみならず、京都の総本山・大本山への出張も増えてきました。

今年の2月の事、本当に久しぶりに京都の総本山知恩院へお参りすることが出来ました。関西への出張の際は、いつも飛行機を利用するのですが、この時は珍しく新幹線を乗り継いで参りました。

外の景色が田んぼばかりの東北新幹線は、景色を余り楽しめませんが、東海道新幹線には、久しぶりの富士山を楽しみに乗り込みました。私の席は、進行方向に向かって左側の最後尾の席、富士山は反対側の右側に見える予定です。

本を読みながら東京駅を出発し、品川を過ぎ、新横浜を過ぎ、楽しみにしていたのにも関わらず、いつの間にか居眠りをしてしまいました。しかし間一髪。間もなく富士山というところで目を覚ますことが出来、横の窓を見ると、何と窓のブラインドが閉まっているではないですか!すぐに立ち上がり、開いている窓を探すも、前の窓も更にその前の窓も、みんな閉まっている。なんと開いていた窓は、一番前の席の一番遠くの窓だけが開いていました。

少しでもと思い歩き始めましたが走る訳にもいかず、私が一番前の席に着いた頃には、無情にも富士山は通り過ぎておりました。因みに、唯一空いていた窓の窓側に座っていた人は、スマホをいじっていて外は見ていませんでした。

 私自身、それほど富士山に思入れがある訳ではなく拝んだりもしませんが、もし眺めるなら眺めたいと思ったのですが、そんな思いだったのは、あの車両の中で唯一私だけだったのか?ブラインドを開けるだけで見えるのに…。時代の流れと言えば簡単ですが、複雑な思いがしました。

寺離れ・宗教離れと言われて久しく、信仰も持たず、大切な人の葬儀も行わない人も余り珍しくなくなってきている昨今。

この世に生を受け、縁に恵まれて阿弥陀さまへの信仰を持つことが出来、日々お念仏をお称えしている私達が、いかに幸せなのかを思わされます。皆さんはどう感じられるでしょうか。

私達をお救いくださる阿弥陀さま。そして、このお念仏を明らかにしていただいた法然上人。法然上人、お念仏をお称えする人は、常日頃このような心持ちでお念仏をお称えしなさいよ、と示されています。

「ある時には世間の無常なることを思いて、この世の幾ほど無きことを知れ。

ある時には仏の本願を思いて、必ず迎え給えと申せ」

(意訳:ある時には、私達が生きるこの世は無常の世であり、この世にいられるのは幾ほどなき事なんですよ。いつもとは言わないけれど、ある時にはいつか必ず私自身が無常の風に吹かれる時が来ると言う事を受け止めなさい。

そして、ある時には、どんな者であっても我が名を呼ぶ者を必ず救い摂るという阿弥陀様の本願を信じ、この私を極楽浄土にお救いくださいとお念仏を申しなさい)

何の因果か人としてこの世に生を享け、遭いたくとも中々会い難い仏教と出会う事が出来、その中でも本当に尊きご縁に導かれ、誰もが救われる・どんな者でも救われる阿弥陀様のお救い・ご本願と出会えている私達。

 「機会が人を見捨てるよりも 人が機会を見捨てる方が多い」

 阿弥陀さまのお救い。お念仏の御教えは、いま目の前にあります。出会えたとしても、自分自身が向き合わなければ何の意味もないことです。

私達はこの尊ときご縁を大切に大切に受け止め、日々お念仏をお称えするばかりです。                                合掌

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