1月のことば

「新年に 命の尊さを かみしめる」 


ナムアミダブツ 

皆様がお念仏をお称えされ、健やかな一年になりますよう心からお祈り申し上げます。本年も何卒よろしくお願いします。

いよいよ本年は、法然上人が承安5年(じょうあん・1175)に浄土宗を開かれてから850年を迎えます。

なぜ法然上人が、それまでの仏教の教えではなく、新しいお念仏の御教えを明らかにされたのか。

それは“私とは一体どういう者なのか”と言うことを突き詰められたが故にお念仏の御教えに辿り着かれました。

法然上人は、長承2年(ちょうしょう・1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)にて、武士の子として生を享けられ勢至丸と名付けられます。勢至丸様9歳の時に、夜討ちにあった父の枕辺で「敵を恨むことなく早く出家を果たし、我が菩提を弔い、自らも悟りを求めよ」との遺言に従い仏教の修学に励まれます。15歳にて比叡山に登られた勢至丸様は、学問修行に打ち込まれ、遂に出家を果たされ、「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」と言う名を授かります。その後も学問を極め尽くされ「深広の法然房(ふかひろのほうねんぼう)」と称される程でしたが、そこに法然上人が求めるものはありませんでした。

そもそも仏教を開かれたお釈迦様は、「この世は苦であり」、その原因である煩悩を滅すれば、苦から逃れることが出来るとお諭しです。

しかし、法然上人が学べば学ぶほど、修行に打ち込めば打ち込むほど、自身の煩悩を滅することが出来ないことに苦悩されるのです。

心の中では、欲する心や瞋りの心に常に揺れ動かされ、この世が無常であることですら本当に受け止める事など出来ない。こんな私でさえも救われる教えは無いのかと探し求められた末に、善導大師のお書物『観経疏(かんぎょうしょ)』の一文に導かれるのです。

そこには、

「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず。念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。かの仏の願に順ずるが故に」

(ただひたすら、南無阿弥陀仏と称え、いつどんな時でも、時間の長短に関わらず、絶やすことなく称え続ける。これが極楽浄土に往生できる正しき行である。それは阿弥陀様自らが、我が名を呼ぶ者を必ず救い摂ると誓われた本願の御心のままを実践する修行だからである)と示されていました。


自らの経験や知識などを振り捨てて、自らの力や計らいではなく、阿弥陀様の「我が名を呼ぶ者を必ず救い摂る」というお誓いである本願に我が身も我が心も全てお任せし、ナムアミダブツと称える人だけが救われる。
法然上人は、この御教えをお伝えいただくために生涯を捧げられました。そのご苦労を偲び、共々にお念仏をお称えしましょう。 合掌

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