おてらからのおたより  -平成30年1月のことばー

 「願う心は 道をつくる」

昨年、上野の東京国立博物館で行われた『運慶展』に60万人もの来場者が訪れたといいます。かく云う私もその一人で、運慶が世に生み出した写実的で力強く何かを訴えかけてくる仏像や高僧のお姿に圧倒され言葉に表せないほどの感動を覚えました。

本来であれば一度に見ることが出来ない作品の数々を見られるのは、とても有り難いのですが、やはり本来あるべき寺の本堂で拝見し手を合わせたいなぁというのも正直な思いでした。

信仰がある幸せ

昨年行われた『遺族のための法話会』に、70代とおぼしき一人の男性が参加されました。奥さんを亡くされたこの方の悲しみは深く、その苦しみから逃れるために多くの宗教書や仏教書を読まれたといいます。しかし、悲しみや苦しみは癒えることなく、偶然目にした法話会開催の告知に、一縷の望みを見て参加されたようでした。

誰もが救われる阿弥陀様のお救いや、先立った方ともまた会うことが出来る御教えが説かれる法話を聞き、亡き人や自らが救われるお念仏を称え、お勤めを終えました。

法話と法要の後、「会に参加してみて、どうでしたか」と尋ねると、その男性は「いまどき念佛など古い。時代錯誤だ」と言い放たれました。

その後もお話を伺い、さらに法然上人のお念仏の御教えの尊さを精一杯お伝えしましたが、それ以上の進展はなく、残念な思いで一杯でありました。

聴くと聞く

「きく」という言葉には、「聞く」と「聴く」という字があります。

「聞く」は、音声を知ること、ただ単にきくこと。即ち「耳」という字が入る。

一方の「聴く」は、注意深く身を入れて、あるいは進んで耳を傾ける場合に使う。ゆえに「聴く」には、「耳」と「目」と「心」という字が入るといいます。

どんなに素晴らしい歌であっても、「聞き」流すだけでは何も有り難くありません。しかし、歌詞に自らの想いや立場を重ね合わせて「聴く」が故に、初めて心に沁みる素晴らしい歌になるのではないでしょうか。

法然上人は「お釈迦さまが生涯を懸けて説かれた御教えをしっかり学び習ったとしても、自らはその一節さえも理解のおぼつかない、愚かで物わかりの鈍い分別のつかない身と自省して、出家とは名ばかりでただ髪を下しただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏を称えている人に我が身をなぞらえ、決して智慧のある者のふりをせず、ただひたすら『南無阿弥陀佛』とお称えしてこそ往生は叶うのです(善導寺御消息)」と仰っています。

死別の悲しみからは逃れることが出来ず、この世に於いて、もう会うことが出来ないことを認めたくなくとも認めざるを得ません。けれども、この世でなくとも今一度会えるならば、私はその教えにすがりたいと思います。

南無阿弥陀佛の「南無」という言葉は、帰依する、身をお任せするという意味です。

どんなに素晴らしい運慶の仏像であっても、見る人に拝む心がなければ優れた美術品でしかありません。どんなに素晴らしい御教えが有っても、我がための教えと受け止めて初めて尊き御教えになることでしょう。

お念仏の御教えに身を任せ、ただただお念仏を申してまいりましょう。  合掌

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