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おてらからのおたより  ―平成26年8月のことばー

  「幼な子に 合わせてみせる この両手」 夏真っ盛り。先日、炎天下のなか、赤ちゃんを抱っこするお母さんの姿がありました。さぞかし暑くて大変だろうなと眺めていると、お母さん、赤ちゃんのおでこに“チュッ”。誰に見せる訳でもないけれど、何ともほっこりさせられました。 様々な復興計画が進むなか、残念な話を耳にしました。新設を予定する岩沼市の火葬場が、地域の住人に反対されているというのです。以前、同じような話が東松島にもありました。震災時、山形や岩手まで行かなければ火葬も出来なかったのに…。 震災で移転を余儀なくされたお寺さんも、移転予定地の近隣住人から「近所で礼服姿の人を見る機会が増えるから嫌だ」と言われたと聞き、愕然としました。 誰もがいずれお世話になるのに、自分だけは嫌なんですね。臭いものには蓋をすればいいんですね。昔の教えはそうでなかったはずです。人が嫌がることを率先して行い、あるべき姿をしてみせる。そんな大人の姿が求められています。 お盆の季節。亡き方々にそっと手を合わせる、そんな後ろ姿を子供たちや孫たちに見せましょう。 レジャーも結構ですが、家族揃ってお墓参り・寺参りしませんか?ご先祖さんたちも待っています。         合掌

おてらからのおたより  ―平成26年7月のことばー

  「誰の言葉からも何かを聞き取ろうとする人は 常に進む人である」 今年もあっという間に半分が過ぎました。私にとっては五重相伝会から二カ月が過ぎてしまったと言う方が合っていますが…。 五重相伝の後片付けも終わらない五月の末、関西へ布教の旅に出掛けました。今回は京都と大阪に宿をとり、滋賀・兵庫・京都での法話。それぞれのお寺への移動は、法衣に雪駄を履き、スーツケースをゴロゴロ引いて、電車とバスを乗り継いで参ります。大概、この格好ですとあまり人とぶつからないのですが、今回は何故か沢山ぶつかります。「なぜ、こんなに?」と、ぶつかる度にその人を見ると、携帯電話なのか、ウォークマンなのかは分かりませんが、ほとんどの人が耳にイヤホンをしています。まるで外の世界を拒絶し自分の世界だけで生きているような感じさえします。ぶつかった事に気付いているのか、気付かないのかは分かりませんが、すいませんの一言もほとんどなく、あっても心無い感じです。ぶつかられた方は何か釈然としません。せめて挨拶や“ありがとう”“ごめんなさい”位はお互いに気を付けたいものです。 でも、人の振り見て何とか…。実際にイヤホンはしてなくとも、他人様の言葉にちゃんと耳を傾けているか?う~ん、耳がいたい!しっかりと聞き取り、何かを感じ取りたいものですね。合掌

おてらからのおたより  ―平成26年4月のことばー

  「花咲けば共に眺めん 花散れば共に惜しまん」 木蓮の大きな花が開き、春の訪れを教えてくれています。この木蓮の花を見る頃、決まって思い出す曲があります。カラオケで良く友人が歌っていた『木蘭の涙』という歌です。 ♪木蘭のつぼみが 開くのを見るたびに  あふれだす涙は 夢のあとさきに あなたが来たがってた この丘に一人きり  さよならと言いかけて 何度も振り返る 逢いたくて逢いたくて この胸のささやきが あなたを探している あなたを呼んでいる いつまでもいつまでも 側にいると言ってた  あなたは噓つきだね 私を置き去りに♪  被災地を公園にする計画が進んでいます。遅々として進まない計画に苛立って、「とっとと始めればいいのに!」と声を荒げる人さえいます。 でも、未だに家族の行方が分からない人の中には、公園になるこの大地の中に、もしかしたら…?と心を痛めている人も沢山います。花を見るたびに涙があふれる人がいます。さよならと言いたくても言えず、置き去りにされたと感じている人もいます。見守る温かさが求められています。          合掌

おてらからのおたより  -平成26年1月ー

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  ともに新年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。 いよいよ今年は、『五重相伝会(ごじゅうそうでんえ)』が開催されます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。   空 腹 は 恐 怖  以前、ラジオで耳にした干ばつや紛争によって飢餓状態にある人々への募金を呼びかける言葉です。食べ物がない、食べられないという恐怖なのか?食べ物を手に入れるためには、何をしでかすか分からないという恐怖なのか?長年、頭から離れなかった「空腹は恐怖」ということを、東日本大震災に遭い、多少なりとも経験することになりました。  私の実家のある石巻市では、震災後まったく食べ物がなく、三日目にして初めて配給されたのは、たった一枚のクラッカーだったといいます。実はこの一枚のクラッカーも、一人に一枚配られたのではなく、一家族に対して一枚。近くの中学校に避難していた私の兄は、この一枚のクラッカーを家族五人で分けて食べたと聞きました。 空腹を紛らわそうと、蛇口をひねっても水も出ず、二日間を五〇〇㎖のペットボトルの水一本で過ごさなければならない状況。 喉の渇きや空腹にさいなまれる多くの人が食べ物や飲み物を探し求めました。   震災より人災のほうが・・・  石巻市でコンビニを経営する幼なじみは、 「津波による被害より、津波が去った後の被害の方が大きかったよ。私がいようが誰がいようが、口に入れられる物や日用品だけじゃなく、ありとあらゆる商品を片っ端から持っていかれたよ。」そう言ってうなだれていました。 彼女が大変な苦労と借金を背負って、ようやくこのコンビニを開店し、女手一つで二人の子供を育てている姿を見ているせいか、腹が立つのと同時に、故郷の人々がこんな事をするのかと、悲しい気持ちにもなりました。   あなたなら・・・?  やるせない気持ちを引きずったままの私は、同じ石巻に住むIさんにその思いをはき出しました。人柄の良さから誰からも愛されるIさんは、私も特に信頼を寄せる方。Iさんなら、私の思いをくみ取ってくれるだろうと思い話しましたが、Iさんの口からでたのは予想外の言葉でした。 「お尚さん、その店じゃないけれど、俺も貰ったよ。生きていく為に…。だって親だから、子供に何か食べさせなきゃないでしょ。だから、俺も貰ってきたんだよね。でも、もし、お尚さんの家族が今...

おてらからのおたより  ―平成25年12月のことばー

  「時が経つのが早いと思うのは、 人生というものが解ってきたからだ」 ♪今年の汚れ、今年のうちに♪ いつのまにか、このフレーズを耳にする季節となりました。何かと気 忙しい時期ですが、年末のお掃除の合間に一息入れて、お茶でもすす りながら、今年はどんな一年だったかを振り返ってみましょう。 皆さ んにとってはどんな一年でしたか? 私の一年は、確実に年を重ねていることを実感する一年でありまし た。日頃から疲れが溜まると、目がピクピクと痙攣することがある 私。ある時、あまりにもその痙攣が酷いので眼科に行ってみたら、“老 眼”との診断。「え~?」とショックの私に、お医者さんは「四〇過ぎてんでしょ?普通ですよ」とのこと。そう言えば最近、近くから遠く、遠くから近くを見ても、カメラがピントを合わすように、すぐには見えないこともあるし、辞書などの小さい字は目を離さなきゃ見えない。小さい頃、縫い物をしていたお婆さんに、良く針に糸を通してくれと頼まれ、その頃は何でこんな簡単なことを頼むんだ?と思っていましたが、いざ自分が老眼になってみると…。 そんな婆さんも亡くなって丸十六年。今年十七回忌を迎えました。 “老いるということは自らが老いていることを自覚出来ないことだ”と言いますが、正に、我が身に積もる老いを忘れていました。 以前、このおてらからのおたよりも「字がちゃっこくて見ずらい」と言われたことがありました。老眼に仲間入りした来年は早速対応策を講じたいと思います。時が経つ速さは待ったなし。どんなに忙しくともお念仏を忘れずに。今年一年、大変お世話様でした。健やかな新年をお迎えください。                    合掌

おてらからのおたより  ―平成25年11月のことばー

  「人の一寸は見ゆれど 我が一尺は見えず 」 苦節九年。楽天ゴールデンイーグルスが悲願の日本一になりました。我々だけではなく、未だに仮設住宅などで厳しい生活をおくられている人々にも大きな希望をもたらしてくれたと思います。 球団創立当初は、「俺、このあいだ勝った試合見たぞ!」「おら、まだ勝ったの見た事ね~」こんな会話が当たり前にされていました。ある時、あまりにも負けが続くことに腹を立てた私は、『楽天』という言葉に一体どんな意味があるのかを調べてみました。辞書には、楽天とは「世の中を楽観すること」とありました。では『楽観』を調べてみると、「将来のなりゆきに明るい希望的な見通しをつけること」とありました。さらに『見通し』を調べてみると、「こちらからあちらまでひと目に見えること」とありました。当時は将来の見通しなど立てることなど到底出来ないようなチームでしたが、『楽天』という言葉自身は、実は私達にピッタリな言葉だと気付かされました。それは、お念仏を称える私達は、最期臨終の夕べには、必ず阿弥陀様がお迎えくださり、極楽へと救われる。つまりこちら側(この世)からあちら側 ( 極楽 ) までの道筋がしっかりと見え、将来のなりゆきに明るい希望的な見通しがつけられるからである。 でも、あちら側までは見通すことが出来る私達であるが、こちら側(私自身)を見つめることが出来ているだろうか?他人様のことは、ほんの些細なことでも目につき、鼻につき、腹がたつけれど、同じように私自身が他人様に同じように思われる行動していることを受け止めているだろうか。他人様と比較して、あの人よりは…というのではなく、阿弥陀様と比較をして日々しっかりと反省していきたい。 合掌

おてらからのおたより  ―平成25年9月のことばー

  「ありがとうを 心に口に 行いに」 先日ある噺家が、時代や社会が変わり過ぎて、現代人に落語の面白さが伝わりずらくなってきていると言っていた。確かに“長屋のはっつぁん”と聞いても、長屋自体をあまり見かけないし、道具屋と言われても道具屋とはいったい何屋さんなのか分からずがピンとこないかもしれない。 古典落語に『千両みかん』という演目がある。 ある呉服屋の若旦那の具合が悪くなり医者に診てもらうと、「気の病で、何か心に思っていることが叶えば、良くなる」という。しかし、いくら父親が尋ねても、若旦那は首を横に振るばかりで、数日後には飯も喉に通らないほど衰弱してしまう。みかねた父親は、番頭に 「何が何でも悩みを聞きだせ!」 と言いつけた。 なかなか口を割らなかった若旦那であったが、聞けば「実は、 ミカンが食べたい」という。ところが季節は真夏、土用の八月。こんな季節にミカンなどあるはずがない。番頭さん、死に物狂いであちらこちらを探し回り、ようやく見つけたたった一個のミカンがなんと千両もするという。でも、背に腹は代えられない父親、可愛い倅が元気になるならと、千両もの大金をはたいて、一個のミカンを買ってあげた。ミカンの中には十房の実が入っていたから、何と一房百両である。 喜んでミカンを食べていた若旦那だが、三房残して番頭にこう告げる。 「一房はお父つぁんに、もう一房はお母つぁんに、そしてもう一房は番頭さん貴方に」 ミカンを手にした番頭さん。「一房百両。三つ合わせて三百両…。このままずっと奉公していたって、そんなお金は手に入らない。」と、手渡されたミカン三房を持ち逃げしたという話である。   冷凍技術の進歩によって、リンゴもミカンも西瓜も梨も一年中あるので、今の人には、この話もピンと来ないかもしれない。今の時期の法事のお供えにミカンがあげられることも珍しくなくなった。“秋ナスは嫁に食わすな”と言ったが、食べ物に“旬”を求めるのは難しい時代になってきたし、子や孫にさんまの季節は?と尋ねて、トンチンカンな答えが返ってくるのもそう遠くないのかもしれない。 そんな中、気候や服装以外で季節を感じられるのは、お正月、春彼岸、お盆、秋彼岸、お十夜、除夜・・・、唯一宗教行事だけなのかもしれない。 先日、ある法事で「時代の変化とともに、お墓参りなどはどんどん廃れていく...