投稿

11月のことば

イメージ
  「わかちあうと 幸せはふくらむ」  今年もあと 2 か月。 11 月は年末とまで云わないまでも、なにか気忙しい気がしますね。 時間に追われ、知らず知らずのうちに気持ちの余裕も無くなっていることも多くあります。夜空の星を眺めたり、手を洗ってみたり、すぐに実行出来る心の中の空気の入れ替えをしてみませんか。  先日、よく利用するエレベーターでのこと。 用を終え、先にエレベーター内に乗り込んだ私。目の前のお婆ちゃんがゆっくりゆっくりと靴を履いています。普段なら、急かすのも迷惑だろうとドアを閉めて先に降りてしまうのですが、この日は待っていようと、「開」のボタンを押したままでお婆ちゃんを待ちました。時間にして 30 秒ほどだったでしょうか。ようやく靴を履いたお婆ちゃんが振り向くと、ドアを開けて待っていた私に驚かれました。「あらっ」と急いでエレベーター内に乗り込んできたお婆ちゃんは、エレベーターが来たことに気付いていたけれど、待たせるのが悪いから、わざとゆっくりと靴を履き、おまけに自分が気づいていないふりまでしていたとのこと。  そんな気を遣う必要もないのにと話す私に「やさしいのね、あなたのやさしさがとても嬉しいわ」との言葉を掛けてくれました。私は「こちらこそ、有り難うございます」と伝え、その場を後にしました。  高々 30 秒待っただけで、このお婆ちゃんから心が豊かになる感謝の言葉と素敵な笑顔の施しをいただきました。この施しを仏教では「和顔愛語(わげんあいご)」と言います。  人の顔は、その人の内面がつくると言います。  わずかなこと、いや微かなことであったとしても、和顔愛語を心掛ける 11 月にしませんか。

10月のことば

イメージ
  「たまには立ち止まってみてごらん 違った景色が見えてくる」   酷暑に涼を与えてくれた青々とした葉もいつしか茶色になり、落ち葉拾いに追われる季節になりました。 毎日毎日、枯葉拾いに追われるのは決して楽ではありませんが、考えようによっては頭の中を空っぽにしたり、書かなきゃいけない原稿を練ったり、様々なことに向き合うことが出来る貴重な時間でもあります。 秋は、「秋の日は釣瓶落とし」と例えられるように日が暮れるのが早くなり夜の時間が長くなります。   読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋 … 。   「日が短くなったね~」なんてぼやいてないで、〝自分に向きあう時間〟を提供してくれているそれぞれの秋を満喫しましょう。 もちろん普段以上にお念仏を称えることも忘れずに。  

9月のことば

イメージ
  「出遇いと別れの人生で、遇っている「今」を大切にしたい」 いつのまにか 9 月になりました。 9 月を英語で言うと「 September 」。 「 September 」と言えば『アース・ウィンド・アンド・ファイアー』の名曲が思い浮かびます。 1978 年にリリースされたこの曲は世界的な大ヒットをし、40年以上を経た今でもよく耳にする不朽の名作です。 『 September 』と言う曲名から 9 月の歌かと思いきや実はそうではなく、「 9 月に出会った私達は、月日が経った 12 月の今も愛している~」と歌われている 12 月のラブソングです。 私の世代から更に上のお兄さんお姉さんたち世代の人は、この曲を聞くとついつい踊りたくなる人も多いのではないでしょうか。と同時に、楽しかった思いや苦い思い、辛かったり悲しかったことを思い出す人もいるかもしれません。「未来は今の積み重ね」と言いますが、それらの思い出を経て、「今の私」があるんですね。 9月19日(木)から25日(水)は秋のお彼岸です。 先立たれた方々が眠る墓前にお参りし、亡き人との思い出を思い返してみませんか。 その思い出は、決して楽しいことばかりではなかったかもしれません。しかし、その方との出逢いと別れがあって、「今」があります。 今を大切にするためにも、足を運び一輪の花だけでも手向けませんか。

8月のことば

イメージ
  「暑さの中に涼を求めるが如く、寂しさの中に救いの光を求める」 良いのか悪いのか分からないが、今の私に導いてくれた人がいる。 元々、高校教師をしながら僧侶をされていたその人は、県内の浄土宗の若い坊さんに仏教や浄土宗の教えの基礎をはじめ、様々な学ぶ機会を作ってくれていた人であった。 決してあれこれと指図するようなタイプではなく、物静かに一歩下がって構え、相手の自主性を尊重する人であった。 知る人ぞ知る布教師で、先生と呼ばれるような著名な布教師さんが一目を置く存在であった。   若くして住職になった私は、その重責に見合った法話をしなければというより、間違った教えを伝えないようにとの思いから法話の道を学び出した。 布教師養成講座と言う講座を受講することを決めた時にその人は、両手をあげて喜んでくれ、私の原稿に目を通してくれた。 先日、毎年恒例のこの恩師の寺の施餓鬼法要の手伝いに出向いた。 法要中、導師を勤める現住職の息子さんの姿と恩師の姿が重なって、式中にもかかわらず涙がこぼれた。何年経っても涙がこぼれる。 ある老師が、 8 月は広島の原爆、長崎の原爆、終戦記念日、お盆があり、「死」を考えさせられる月だ、との言葉に深く納得する。 猛暑の中であっても僅かな涼を求めるように、お念仏の御教えは、拭いきれない寂しさの中にも自らが救われる光が示される。 早いもので恩師も 17 回忌を迎えた。

7月のことば

イメージ
  「まわりを照らす人になろう」 6 月のとある夕方。カラスの鳴き声が騒がしく周囲を見回すと、道路の真ん中にうずくまる一羽のカラスがいた。親ガラスたちが、動けないでいる子ガラスに対し懸命に叫び続けていたのだ。 車の行き来の合間に歩道に誘導しようとしたが一歩も動くことが出来ず、その後、一台の車に接触してしまい最悪の状況を想像した。 しかし、同じように見守っていた一人の高校生が道路に駆け出し、倒れた子ガラスを両手に抱きかかえて安全な場所に助け出してくれた。 彼のとっさの行動と勇気に感動すら覚えた。   寺に連れ帰った子ガラスは、翌日には元気にカーカーと鳴き、だいぶ復調したように見え、怪我をした野生動物を保護する施設に引き取られていった。様子を見て山に放たれるという。 親ガラスとは離れ離れになってしまうが元気に大空を飛び回って欲しい。   いま思い返しても、脳裏にあの高校生の行動が写り、感動が蘇る。 誰かを照らすための行動を心掛けたいものだ。 それがたとえ 僅かであっても。たとえ微かであっても。 (カラスのカータン)

6月のことば

イメージ
  「自我を折ることが出来て 初めて祈ることが出来る」                   ―折ると祈るー(吉野 弘) 6 月に入り、雨の日が少しずつ増えてきました。 ところが米どころ新潟の一部地域では水不足によって田んぼが干上がりそうだといいます。雨不足と昨年の暖冬による雪不足が影響しているそうで、梅雨による恵みの雨を祈るばかりです。   梅雨には長雨がつきものですが、分かっていても洗濯物が乾かないとか、やれお風呂にカビが生えるだとか、ついつい不平不満が口から出てしまいます。 顧みれば私たちには、常に「私にとって」と言う事が第一にあります。 「私にとって良い天気」「私にとって良くない天気」 「私にとって具合の良い人」「私にとって具合の良くない人」 「私にとって好ましい幸せ」「私にとって好ましくない幸せ」 などなど、自分自身の胸に手を当ててみると、胸が苦しくなる程です。 今月の言葉は、詩人・吉野 弘の「折ると祈る」という詩です。 確かに「私にとって」という「自我」を捨ててこそ、神仏に額づき真摯な心で手を合わせることが出来るのでしょう。しかし、なかなか「私にとって」という自我から逃れられない私たち。 自我を折ることが出来ない私であると我が身を見つめ、こんな私であってもお救いくださる阿弥陀様の名をただただお称えしたいと思います。                                                                               合掌

4月のことば

イメージ
  「いつでも どこでも ヨーイドン」   桜が咲いた。 観ている私の心も温かに、そして穏やかになる。 昨今は、その美しさを求め、世界中から多くの人が訪れている。 一方で花の命は短く、あと何日愛でることが出来るのかと、一抹の寂しさが漂い、世の無常を知らされる。 しかし、花を咲かせることだけが樹木や植物ではなく、葉が生い茂る時も、幹や枝だけの時も、種の時も、朽ちてしまった時も、全てが花や樹木である。 「観る私」の都合で、美しさや儚さを感じてしまっている。 新年度を迎え、願い通りの花が咲いた人、願い叶わず花が咲かなかった人、何も変わらないと思い込んでいる人。それぞれの新年度は、誰もがスタート地点であって、誰もがゴール地点ではない。 一歩一歩、しっかりとしっかりと根を伸ばし、葉を茂らせ、次の花を咲かせる準備をしたい。