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12月のことば

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  「一つの言葉でケンカして、一つの言葉で仲直り、一つの言葉に喜んで、一つの言葉に泣かされた、一つの言葉はそれぞれに、一つの心を持っている」 ようやく出口が見えてきたと思っていたら、また新たな株が出現しガッカリですが、気づけば今年も暮れようとしています。 「あ~年内中に○○しなきゃ!」とか、「何日まで△△しなきゃ」と気忙しさに追い立てられます。お茶でも飲んで一息入れようとテレビを点けたら「今年の汚れ、今年のうちに♪」なんて聞こえてきて、余計に余裕がなくなってしまいますね。そんな時はテレビやスマホは休ませて、ただお茶やコーヒーの味を味わったり、好きな音楽でも聞きながら自分の目や頭も休ませましょう。 心や気持ちに余裕が無くなると自分自身が見れなくなって、普段受け止められることも受け止められなくなってしまいます。抱えきれなくなったイライラは、どこかに流れ出ます。もうすでに流れ出ているかもしれません。 「なんで、この人はイライラしているんだ?」と他人にイラっときたら要注意のサインです。実は私自身に余裕がないから他人の行動が許せないのかもしれません。 大切なことは穏やかな新年を迎えること。 相手を思いやる優しいあたたかな言葉は、自分の心をもポカポカにしてくれます。お互いに気をつけたいものですね。

11月のことば

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  「阿弥陀佛と申す人こそたのもしき 後の世までの友と思えば」 ある SNS では、自らが過去に投降した記事をもとに、何年前の今日はどこそこいたとか、何年前の今日はどこそこで何をしていたかなどを教えてくれます。 10 月のある日のこと。その日の6年前、私は法話をさせていただくご縁をいただき、長崎県の上五島を訪れていました。 当時、上五島に行くのには、仙台空港から飛行機を乗り継ぎ長崎空港まで行き、長崎空港から長崎港まではバスに揺られ、長崎港からは船に乗り上五島の港まで行くという道のりでした。 話す法話も「ちゃんと聞いてもらえるだろか?お念仏を称えていただけるだろうか?」と不安ながら、その前に、 「飛行機は時間通り到着するのだろうか?」、「バス乗り場はすぐにわかるだろうか?」、「船にはちゃんと乗れるのだろうか?」、「ちゃんと就航するのだろうか?」などなど … 。未踏の地への訪問はやはり不安が募ります。 でも、行き先に知り合いや友人が待っていてくれることを思うと、ホッと不安な気持ちも払拭でき、とても心強く勇気づけられます。   先日、亡くなられた O さんのお父さん。亡くなられた当初のご家族は、「お父さん、大丈夫かな?」「迷ったりしないかな?」ととても不安気な様子でした。 しかし、誰もが救われる阿弥陀さまのお救いをしっかりと受け止められ、晴れやかな様子でお念仏をお称えされていました。 「きっと、先立った婿さんも待っていてくれますよね」 涙の中にも笑顔が溢れるこの世のお別れでした。 同じお念仏の信仰を持つ人は、共に阿弥陀さまに救われ、同じ極楽浄土に救われ、再会を果たすことが出来ます。 お念仏の信仰がある人にとって、この世の死は終着点ではなく、次の世のスタートです。 懐かしいあの方とも、愛しいあの方ともまた逢えるよう、日々お念仏をお称えしましょう。ナムアミダブツ

10月のことば

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  「自分の都合だけで物事を考えると、不平不満が絶えない」   ほんのひと月前には、ウンザリするほどの暑さだったのに、熱くもなく寒くもなく、とても過ごしやすい季節になりました。私も大好きな季節です。 出来ることなら、こんな気候がこのまま続けばいいのにと願うほどですが、季節の流れは抗いようもなく、あと一か月もすればストーブの準備もしなければいけません。 移り行く季節を恨んでもしょうがないのに、私たちは゛自分にとっての都合“を求めるものなのでしょうね。   長引く蔓延のせいで不要不急とされる大切なものが制限され、やれ○○が悪いとか、やれストレスが溜まるとか、口から出るのは他に対する不平ばかりです。 でも、そもそも 換気の悪い密閉空間に居ないようにし、多くの人が密集する場所を避け、近距離での密接した会話を控える のは何のためだったのでしょうか? それは言わずもがな、自らが感染し、辛く苦しい病気との闘いや命の危険に陥らないようにするためだったはず。でも、いつのまにか自分がまるで被害者のような態度や考え方になっていませんでしたか。   やらされているのか?やっているのか?   そして、自分の都合だけで考えていないか?自分の都合だけで行動していないか?   何事も、自らを見つめることが大切ですね。   ワクチン接種率もあがったせいか感染者数も減ってきました。また、飲み薬が開発されているとの話も耳にしますが、自分のため、周りの人のために考え・行動したいものです。

9月のことば

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  「あの人の死は この世の無常と       かの岸への道を 示してくれている」 8月・9月のふた月は、お盆・お彼岸と続くので、一年の中でも特に先立たれた人々が偲ばれる季節です。 あの人の横顔もこの人のしぐさも普段以上に脳裏に浮かびます。 思いがけず胸いっぱいになったり、辛くなってしまうこともあるけれど、大切な人を想うからこそ、その人の死を、我がことと受け止めたい。 この世が無常であることは中々受け入れがたいけれど、あの人自身が身をもって、かの岸への道を示してくれている。 いつのまにか夏空から変わってしまった秋の夕空を眺めながら、お念仏を称えたいと思う。

8月のことば

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  「あの方と 共に過ごせし 盂蘭盆会 嬉しくもあり 寂しくもあり」 夏休みに入り、実家を離れて学生生活を送っている長女と次男が久々に帰省した。 特に思いがけず親元を離れ遠い地にて暮らす末っ子次男の帰省は、家族みんなが待ち望み、子供の正月のように「あと、いくつ寝れば~」の思いで、「いつ帰ってくるんだ?」との会話が幾度となく交わされた。 帰ってきたら何を食べさせようか?何を出したら喜ぶ顔がみれるか?など、様々な思いが廻った。 帰省した姿に、わずかな月日ながら、多少の成長が垣間見れて、こちらの口元も思わず緩む。こちらの姿がどう映っているかは、分からないけれど。 お盆の月を迎えた。 お盆は、先立たれたあの方と共に過ごしていることを味わいたい。 あの方が喜ぶもてなしをしたいと思う。 あの方が好きだったお酒を手向けたいと思う。 目には見えなくとも、声が聞こえなくとも、大切に、大切に時を共にしたいと思う。

7月のことば

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  「 幸福になりたいと思い 幸福になろうと努力を重ねること              これが幸福への一番の近道である (トルストイ)」 梅雨明けが待ち遠しいこのごろ。コロナ禍とはいえ、夏本番を前に雑誌や週刊誌などには「ダイエット」の文字が多く見受けられます。 巣ごもり生活も長くなり、旅行やレジャー、運動や飲み会さえもはばかられ、憂さを晴らすのも家で飲んだり食べたりしかできないために、ズボンのウエストもいつの間にかきつくなってしまった人も多いことでしょう。 かく言う私もその一人で、近頃は散歩と食事制限という苦行(笑)に励んでいます。 ダイエットの成否はとても明瞭で、入れるエネルギーより使うエネルギーが多ければ痩せるという事は誰もが理解していますが、実際には空腹やストレスなどと向き合わなくてはいけません。 おまけに人間は、他人には厳しいけれど自分にはとても優しくなりがちで、「今日の散歩はいつもより多く歩いたから」とか「次のご飯のカロリーを少な目にするから」とか、ついつい・・・、ということも良くあります。 出来るだけ効率よく(出来るだけに楽をして)理想に近づくための研究にも余念がなく、やれ糖質や脂質を吸収しないサプリであるとか、テレビで紹介された○○ダイエットだとか、知識はとても豊かです。 けれども、思い通りに事が進まないと、「私には合わない方法」だとか「このサプリは効果がないとか」など、他のせいにしてしまいがちですね。 他人事のように自分のことをそのまま言っているのですが、何とか誘惑に負けず理想に近づけるように適度の節制と努力を積み重ねたいと思いますがどうなることでしょうか。 さて、今月のことばはロシアの思想家トルストイのことばです。 「幸福になりたいと思い 幸福になろうと努力を重ねること これが幸福への一番の近道である」   突然ですが、「あなたにとっての幸福はなんですか?」 おいしいものを食べている時、孫を抱いている時、趣味に没頭している時、などなど、それぞれでしょうが、私にとっての幸福は、家族や親しい人々と心豊かな時間を過ごし、この世の生を終えたら、一切のわずらいや憂いのないお浄土で、この世で縁の深かった方々やお会いしたかった方々とお会いすることです。 そうなるためには身と心を健やかに過ご...

6月のことば

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  「身なりより 光る あなたの心がけ」 散歩していると、犬の散歩をしている人達とすれ違う。飼いたくとも飼えない者としては、なんとも羨ましい限りである。 しかし、そんな思いで眺めていると、犬がおしっこをしても水もかけずに、そのまま立ち去る人を多く見かける。公園、人の家の庭先、自動販売機、寺の門…などなど。 「ペットは家族」という言葉に異論をはさむつもりはないが、家族と言うならば、きちんと家族の後始末をして欲しい。まさか、そのような人は、自分の子や孫も外で用を足させているのだろうか。 トイレと言えば、街ではあまり道端で用を足す人を見かけなくなった。コンビニがあちらこちらに出来た影響が大きいのだろう。 しかし、コンビニでトイレを借りて用を足す人が、お店の人に「トイレを貸してください」と断っているのを耳にしたことがほとんどない。公園のトイレのごとく、何の断りもなくトイレに直行し、用を済ませたら何も買わずに、礼も言わずにコンビニから出ていく。そんな様子を見て育つ子供たちも、トンビが鷹を産まない限り、同じことを繰り返すのであろう。 コンビニを訪れると、マニュアルとは言え「いらっしゃいませ」の声が掛かる。 そう言えば、幼い時に魚屋さんや八百屋さん、駄菓子屋さんや文房具屋さんに入る時には、「ごめんください」と、こちらから挨拶していたことを思い出した。 買う側は「商品を売って欲しい」、売る側は「買って欲しい」という相手と対等な関係が存在した。いつのまにやら客の方が偉くなってしまい、売って欲しいではなく、買ってやるに変わってしまった。 自分自身はどうなのか? これから、コンビニに入出店する際の「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」、せめて会釈ぐらいは返そうと思う。